平成二十三年、三月十一日を境にそれ迄当たり前だった日本人の日常生活が一変した。

 

あの日、あの時刻、僕は浜松市内をトラックで走っていた。いつも聞いているラジオのバラエティー番組から突然緊急地震速報が入り、東北で震度7の一報、東京でもかなりの揺れを観測したらしい。それからはもう通常の番組を打ち切って、九段会館の崩落、コンビナートの火災、石原都知事の緊急記者会見と慌しい放送内容から一刻も耳を離せなかった。

しかし、もっともっと悲惨な東北地方の状況が分かったのは一夜明けてから。テレビに映し出されたのはかつての仕事で毎月行っていた宮城県亘理町、石巻、気仙沼。街が瓦礫の山と化している。バイパスの橋が崩れて沈んでいる。船が打ち上げられている。車が流されている。この世のものとは思えない惨状に愕然としてテレビの前から動けなくなってしまった。

テレビの中では今風のギャル(つけまつげビンビンの金髪)が炊き出しのおにぎりを食べながらぼろぼろと泣いていた。「うめえ、おにぎり…チョーうめえ」と言いながら。あの子はこの時食べたおにぎりの味を一生忘れないんだろうなと思いながら僕も泣いた。

そして、「絶対に安全」の筈だった原子力発電所の事故。安全神話は大自然の前に脆くも崩れ去った。

ケータイ電話が通じない。スーパーからカップ麺や水が無くなった。ホームセンターでも防災グッズや乾電池が売り切れ状態。ガソリン不足でスタンドに並ぶ車は幹線道路を塞ぎ、あちこちで大渋滞。

そして、恐怖の計画停電。静岡県も東部の方々は東京電力管轄なので経験したと思うが、いきなり電気が切れたり、あるいは「本日は行いません」とか散々振り回された。なにしろパーキングに車を入れたら計画停電が終るまで出られないのだから仕事にならない。町は真っ暗、信号機まで消えている。今まで当たり前だと思っていた電力にこんなに頼っていたのかと思い知らされた。

六月、全日本川柳仙台大会に合わせ、我々たかねメンバーは石巻に向かった。野次馬根性ではなく、実際にこの眼で「いったい何が起こったのか」を見ておきたかったのだ。とにかく「見渡す限り何にもない、あるのは瓦礫の山だけ」の状態の町に立って全員が言葉を失い、手を合わせ祈るしか術がなかった。

まだまだ復興には時間が掛かるだろう、そして放射能という見えない恐怖もじわりじわりと追い討ちを掛けて来る。今後、税金も上がるだろう。お金持ちだったら「こんな国はサヨナラ」と逃げ出してしまうだろうが、我々貧乏人はこの日本丸から降りられない。

平成二十四年は干支の龍の如く力強く昇る日本を国民一丸となって世界各国に見せてやろうではないか。