私は昭和六十一年に突然、多発性硬化症(MS)という神経難病を患い、二十六年が経過した。以来、車椅子生活を強いられている。入院直後、両眼も殆ど光を失い右手の指が微かに動くほどの全身麻痺となった。

退院後、MSと向き合えるまで五年程かかった。自宅での生活の全てがリハビリで、鬼の療法士(家内)の言葉にむかつき何度罵声を浴びせたことか、恥ずかしい限りである。

このMSを含めて特定疾患の数は、私が発病した当時は20ぐらいだったが、現在は56と三倍近くに増えた。これは難病が新たに増えたのではなく、医学や医療機器の進歩により、今まで謎とされていたのが診断を下されるようになった為だ。

現在、通院の病院は3か所で、車椅子ごと乗車できる車の予約に結構忙しい。一昨年の震災直前に肺炎で入院して以来、昨年も二度入院したが、当分御免被る。

毎年「多発性硬化症(MS)虹の会」という友の会の総会を仙台で開催している。東北大学病院の教授や専門病院の医師を招いて研究の成果や新薬の情報などを聞くが、どうもMSの解明までは、まだまだ遠い道のりのようだ。患者同士の情報交換と体験談は新しい患者にとって、とても貴重なものだ。同じ痛みを持つ者だけに解り合える。それが友の会の一番の役割だと思う。

昨年十月、山中伸弥教授のiPS細胞発見のノーベル賞の受賞に、ようやく我々MS患者にも光が注いできた。臨床実験にお声でも掛かればこの上ない名誉、喜んでこの身を捧げたい。何とかもう一度自分の足で歩いてみたいものだ。

 

川柳との出会い

平成十一年に地元紙の夕刊の課題川柳に初投句で入選したのが切っ掛け。以来すっかり味をしめ、河北川柳に投句を始めたが没の連続。やはり甘いものでは無いと思い、翌年から川柳宮城野社と、仙台なんぶ川柳会に入会して真剣に取り組み始めた。主治医からも励ましの言葉を頂戴して川柳に没頭する。自己流の句だけに主観的なものばかり。鳴かず飛ばずだが川柳を妙薬として、家内(椿)も巻き込んで夫婦で楽しく作句している、

その後、たかねに投句を始めて鰹さんにいつも温かなメッセージを頂き感謝している毎日である。

東北在住川柳愛好者として、東日本大震災の復興に関する句を今後も創り続けて行きたいと思っている。

サンマ焼く火は復興の祈りだろう    太 郎

 

 

 

2013年3月号