霜石コンフィデンシャル99   高 瀬 霜 石

「アナログ年代記―暖炉編」

運命の三月十一日(金)。皆さんはどこにいましたか。

あの日僕は、業界の会議があり青森市内にいた。青森へはたいてい電車で行くのだ。本も読めるし、居眠りもできるから。でもあの日は、会場が駅から遠い問屋町だったので、めずらしく車で行った。それがよかった。

もし車でなかったら、電車は不通だし、ホテルだって停電だから泊めてくれたかどうか。頼みの綱はタクシーだろうが、はたして運よく拾えたか。

車の中では地震に気づかなかった。信号で止まって、アレ?と思った。なんだか車がゴニョゴニョしている。いくらポンコツ車でも、これはおかしいと思い、ラジオのスイッチを押した。

そこから弘前までは、ノンストップ。なにせ信号が消えている幹線道路だもの一直線。ちょうどその頃、田舎館あたりにいたウチの専務は、城東の会社に帰るまで、四十分くらいかかったそうだ。信号が消えてしまった幹線道路に、脇から入り込むのは大変なのだ。

家に帰って、コトの重大さを知った。とにかく、停電対策である。「台風十九号の時を思い出せ、思い出せ」と劣化が進む脳にハッパをかけた。

僕んち―正確には同居人所有の家―には、居間の真ん中にデデーンと鉄製の暖炉が鎮座している。

同居人の亡父の趣味だったモノで、痩せたサンタクロースなら入れるくらいの太い煙突が付いている。

これ、たいした優れもの。とにかく暖かい。ただ、薪を焼べるのが大変なので、普段は石油ストーブ。よっぽど寒い時だけ、同居人が喜々と燃やしている。

遊びに来る友人の3人に1人は大いに羨ましがる。友人が新築の際、高瀬んちにあるような暖炉が欲しいと試しに見積りをとったらば、目が回るような金額。「そんなに火が見たいのなら、どうぞ1人で表で焚き火して」と奥さんに言われたそうだ。

千年に一度の大地震、大津波である。僕はコロッと忘れていたが本人はしっかり覚えていた。あの日、三月十一日は同居人の誕生日だったのだ。

ローソクと暖炉があれば、冬の停電もそう苦ではない。知らない人が見れば、ロマンチックな一夜かもしれない。こういう雰囲気だと、やることはひとつしかない。被災者の方々には誠に申し訳無いが、酒盛りである。長い夜が明けて、僕の頭はズキズキ痛んでいた。