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私の戦終期の思い

金田 政次


 「オーイ内地の灯が見えるぞー!」
広いリバティー号の船腹は、二階建の櫓に足を延べて寝る程の余裕の無い「ます席」がぎっしりと組まれ其の上下どちらの席にも溢れる様な帰還兵で一杯だった。
 その二階の一角でうとうとしていた私も肩を叩かれる迄も無く甲板に飛び出していたのに不自然はなかった。
 薄靄の漂う海上遥か、チラチラ幾つかの灯が瞬いているのを認めると、「・・・内地の灯だ、博多の灯だ・・」と一頻り声が飛び交い騒然とした状態になったが、急に静か
になったなと思った時、誰が歌い出したのか“君が代”の一節が流れ、それに続いて甲板一杯の帰還兵が唱和するのに時はなかった。
・・・千代に八千代にさざれ・・・どの顔も泣いていた。私も涙を手で拭いながら大声で歌った。久し振りに出した声だった。気持ちが良かった。心の底から『帰って来たな』と思ったのは此の時である。
 丸一日と一昼夜海上に留め置かれて、博多湾埠頭に帰還第一歩を印したのが昭和二十一年五月十九日、腕時計が正午を指していた。
私の戦中期には此れといった華々しいものは何も無い、寧ろ終戦期に私なりに色濃く感じた幾つかの出来事があった。
 上海の登一六三一部隊での予備下士官候補者の教育でこってり絞られて、南京の台城部隊へ帰隊した昭和十九年六月頃は既に中国人一般民衆の間で「中国勝った、日本負けた」という噂が広まり不穏な空気が漂っていた時である。
 我が部隊で編制した野戦病院も情勢不安の為撤収する事になり自分も応援に派遣された中に含まれていたのであるが撤退は容易なものではなかった。
 抗日の旗のもとに日本軍と戦っていた中国軍(正規軍と呼んでいた)と共産軍の双方から自軍の方へと期限付きの明け渡しの要求があり、対峙して譲らず一触即発の睨み合いの真中を独歩患者には肩を貸し担送患者は担架で担っての徒歩撤退である。安全圏と思われた揚子江(長江)の河岸へ辿り着いた時、最後尾に居た兵から両軍の発砲の音を聞いたと報告があったが定かではない。

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(2005/10/09(Sat) 00:43:39)

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