静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
トップページへ






 柳  俳  の  接  点     静岡市  柳沢 平四朗 


 年末になると新聞紙上に「文芸この一年」が、著名な評論家によって賑う。俳句、短歌、詩へおける本年の傾向と、新年への抱負が恒例となって活発な所見で埋められる。
 毎年の事ながら此の欄に「わが川柳」の「セ」の字も見当らないから癪だ。こんなに面白い五七五が文芸として失格なのか、そんなに取るに足りないものなのか、腑に落ちぬ些かを過日、新聞社へ問い掛けてみた。
 返事によると、それぞれのジャンルのリーダーの申込みに有るという。川柳は俳句に比べて軽く、安っぽいと思われている世間の風潮へ、責任者の感性も不必要としているのかも知れない。
 何れにしても川柳を若返らせたい思いで一ぱいだ。何時までも私等の様な老人の呆け防止では進歩はない。
 川柳界のホープ鰹君達のバイタリティーで地図の塗り替えが出来れば、現代短詩文芸へ胸を張れる時が来ると期待する。
 故人になられた県の大物俳人が活躍中、俳句の季語不要論を声高に聞き、これは革命的だなと思った。地方に依っては季語の無い口語俳句の盛んな所が有る。若い頃には度々参加したが、此のジャンルでは川柳の方が作り易く、調子の良い選り抜きへ満悦の句会であった。
而し、俳壇の大物曰く「川柳は空想のデッチ上げ」だと喝破する。此の道を飯の種にする御仁には中途半端な妥協は無理であろう。
 ひと昔も前の事だが、何処かの大きな川柳大会が有った折「俳句のような句が多く全部没にした」と言う有名な選者の話を聞いたことがある。最近は川柳と俳句の距離が近く、柳人が作れば川柳で俳人が作れば俳句だとの説が有るが、私には一寸異議がある。
 俳句のわびさび・季語・切れ字、川柳の穿ち・ユーモア・奇抜など混ざることの出来ない特徴があるように思える。
 川柳が始まって二百五十年、二番煎じ三番煎じでは新鮮味も無く魅力も無い。仲間の研究会でも、より詩的によりドラマチックに気負いばかりが先走っている。
 宇宙旅行が云々される時代、作者の意識改革が無ければ俳句との品格は広がるばかりだと思う。
 私は度々初心者の席から「同じ五七五で川柳と俳句はどう違う」のと聞かれ迷ってしまい、正解では無いかも知れぬ自分勝手な答えをする。俳句は建具やで川柳は指物やのようなもので、建具は寸法という枠(季語)の制約が有り、指物は細工物で(自由)だなんて知ったかぶりでお茶を濁している。
 このような随筆は諸先生の前へとても気が引けてしまう。川柳を愛して三十年。進歩の無いわが身への鞭にしたいと思う。了
巻頭沈思考 | Link |
(2007/03/26(Sun) 09:25:03)

200704のログ 200702のログ

Copyright © 静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー. All Rights Reserved.