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GHQ   静岡市 中安 びん郎

私は昭和十七年の一月から海軍技術研究所に就職したが
十九年の終り頃、友達の吉田君が或る日「昨日アメリカの日本向け短波放送に“戦争はもう直ぐ終る、其の場合日本人二世の将校に占領政策を検討中”と言っているが本当だろうか?」と言った、そして翌年八月十五日に日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、海軍も解散したので私は帰省して戦死した兄の跡を継ぎ、農業をするようになった。
 その頃部落に私と同じ様に帰省した青年が大勢居たので青年団を作ることになり、私は副団長にさせられた。「処で会報を作ろうではないか」と提案したところ、みな賛成したので間もなく第一号が出来た。
 会報を読むと、いつも自転車の後ろにキャンデーの箱を載せ売り歩いている男が「私は空襲で家を焼かれ、兄も戦死した。アメリカが憎い。この仇は屹度討つ」と書いてあった。
 其れから幾月かしてGHQ(連合国最高司令官総司令部)から青年団へ『何月何日、当方へ代表が出頭せよ』との文章が来た。団長が鉄道員で行けないので私に行ってと頼まれたので引き受けることにした。
当日千代田区の濠端の元第一生命保険ビルを改装したGHQに行き、件の召喚状を受付に出した処事務所に案内された。見ると男女共稲荷寿司の様な帽子を斜めに被り、頭髪は黒く、昨年吉田君が言った様な日本人二世である。着席すると靴の爪先に金色の星マークを付けた女性士官がコーヒーを持参して「遠い所から御苦労様です」と日本語で言われたので初めてホッとしたのである。
 次に肩章に星が二つ付いている中尉らしき将校が現れ、青年団のキャンデー屋の文章を指して「こんな文章をこれからは書かないで下さい」と言って黙って去って行った。
 私はアメリカ人の寛大さと豊かさに敬服した。
 その頃横浜では戦時中捕虜を虐待した収容所の兵士の裁判処刑を行なっていた。
 昔中等学校でも無抵抗の下級生を苛めた事を思い出した。その点アメリカ人は捕虜を大事に扱う紳士的な習慣である。沖縄戦でも充分テレビで見た。
 そして静岡へ帰る汽車の中で、アメリカ軍はどうして静岡のイナカ町、曲金の青年団の会報を手に入れたのだろうかと思い、その諜報力の凄さに驚いたのである。
 

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(2007/08/06(Mon) 21:31:08)

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