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「 駒 下 駄 カ ラ コ ロ 」 寺 脇 龍 狂

夏場は素足に下駄を履く。
桐の木の軟らかい感触と黒い鼻緒(綿かビロードがよく知らないが)の肌触りがとても心地良いからだ。今時下駄など履いている人は滅多になく、皆珍しがる。
昭和六年、町へ小僧奉公に出た。親方夫婦が超ジミな人達で兄弟子も三人いたが、酒タバコは勿論のこと長髪はダメ、休みの日でも履物は所謂「日より下駄」で雨降り用の下駄の足が少し低い物だった。カラカラの上天気でもこれを履いて町へ遊びに行った。駒下駄なぞ生意気の一言で、見ることも許されなかった。
近所の若い衆がカラコロ履く駒下駄がとても羨ましかったが、置かれた立場上仕方のないことで、早く大人になって履いて歩きたいと毎日思った。貰った小遣いで買ったらよさそうなものだが、封建時代の事ゆえそんな訳にはいかない。
 長屋に下駄の「歯いれ屋」があり、嘘のようだがこういう下駄の歯を修理する職人がいて町の人達には重宝した。
これで商売になったのだから何とものんきな時代だった。
また町内に「鼻緒屋」という店があって、下駄や草履の鼻緒を作ったりすげてあげたり結構繁盛していたようだ。
長い戦争の揚げ句の敗戦で世の中は一変。戦前の情緒豊かな社会はどこかへ吹っ飛んで物も心もアメリカ流にならされて男の履物はズック靴に変わっていった。
復員時に大事に持って帰ったズック靴は勿体なくて中々下ろせなかった。戦前、物はあってもお金のない時代に育ち戦後は物も金もない荒れた土地へ放り出され、無茶苦茶働いて経済大国と言われる程の世の中となり一応不自由のない暮らしとなったが、その代償はあまりにも大きく毎日のように起こる殺人事件、交通事故、果てはその日の食べ物まで毒か薬か分からないような殺伐な世の中になってしまった。
一世紀に近く生かされて、いま果たして幸せかどうか心は揺れる。駒下駄が履きたかった静で平和なあのころが無性になつかしい。

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(2007/10/26(Thu) 09:25:03)

駒下駄カラコロ  浜松市  寺脇 龍狂

夏場は素足に下駄を履く。
桐の木の軟らかい感触と黒い鼻緒(綿かビロードがよく知らないが)の肌触りがとても心地良いからだ。今時下駄など履いている人は滅多になく、皆珍しがる。
昭和六年、町へ小僧奉公に出た。親方夫婦が超ジミな人達で兄弟子も三人いたが、酒タバコは勿論のこと長髪はダメ、休みの日でも履物は所謂「日より下駄」で雨降り用の下駄の足が少し低い物だった。カラカラの上天気でもこれを履いて町へ遊びに行った。駒下駄なぞ生意気の一言で、見ることも許されなかった。
近所の若い衆がカラコロ履く駒下駄がとても羨ましかったが、置かれた立場上仕方のないことで、早く大人になって履いて歩きたいと毎日思った。貰った小遣いで買ったらよさそうなものだが、封建時代の事ゆえそんな訳にはいかない。
 長屋に下駄の「歯いれ屋」があり、嘘のようだがこういう下駄の歯を修理する職人がいて町の人達には重宝した。
これで商売になったのだから何とものんきな時代だった。
また町内に「鼻緒屋」という店があって、下駄や草履の鼻緒を作ったりすげてあげたり結構繁盛していたようだ。
長い戦争の揚げ句の敗戦で世の中は一変。戦前の情緒豊かな社会はどこかへ吹っ飛んで物も心もアメリカ流にならされて男の履物はズック靴に変わっていった。
復員時に大事に持って帰ったズック靴は勿体なくて中々下ろせなかった。戦前、物はあってもお金のない時代に育ち戦後は物も金もない荒れた土地へ放り出され、無茶苦茶働いて経済大国と言われる程の世の中となり一応不自由のない暮らしとなったが、その代償はあまりにも大きく毎日のように起こる殺人事件、交通事故、果てはその日の食べ物まで毒か薬か分からないような殺伐な世の中になってしまった。
一世紀に近く生かされて、いま果たして幸せかどうか心は揺れる。駒下駄が履きたかった静で平和なあのころが無性になつかしい。

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(2007/10/22(Mon) 16:10:10)

川柳の協会や結社に危機  島田市 川路 泰山

現在の川柳界に大結社は別としても地方の協会や結社が解散もしくは寸前に追い込まれている所が各地区に見受けられる。十年程前に私が声をあげた事がある。七十才を過ぎた協会役員や結社主幹は若手に引き継ぐ準備を始めないと息詰まりが来るからと、自らも後任を推薦して引退したが実らなかった。
今、正にその危機が現状化してきた。危機に瀕してから人集めに躍起となっても遅い。川柳人口だけは異常な程増加はして居るのだが、協会や結社が見離されてしまった。
原因は指導者の高齢化と一家言持った好作家も減少したが、一つは近隣吟社や県外吟社との交流がなくなり、地元だけの句会で旧態依然とし、定型以外破調句や仮名文字の句は戴きませんでは若い人は近寄れない。
それに課題等も作句者を馬鹿にした様な低俗なものまであり、協会主脳や選者の常識まで疑われる。特に県大会ともなれば、県外から全国レベルの選者の数名は誘致しないと益々老朽化してしまう。 
それに協会、結社の外では、新聞や雑誌や商業宣伝から
サラリーマン川柳、川柳マガジン等に依る自由な投句発表が出来るので結社の必要を感じない。
この現状の中で協会や結社が生き残って行くのには、協会結社の主脳、選者にしてもそれ相当の勉学努力《伝統から前衛、革新、詩性と現代の川柳を一通りは掌握する》が必要となる。
それと句会の在り方にも問題がある。座興程度の句会が大半で、参加者も、今日は抜けたとか全没だったの会話だけで終始する事が多い。本来なら勉強の会であってほしい。一選者に対して一課題一句の投稿で、選者は入選落選の全句に句評を付ける。句会に参加せずに投句だけの場合は十日か半月前に締め切って選者に宅送する。当日発表。
この様にする事で投句者選者共に勉強になる。大会の場合は別である。大会は一つの祭りだ。
「ローマは一日にして成らず」



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(2007/10/22(Mon) 16:08:17)

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