静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
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特別寄稿
 
 川柳人よ自分を見詰め直して欲しい  川路 泰山 



現実に何百万人とも言われる膨大な川柳人口の中で、川柳とは何かを問い直す時期に来ている。川柳のプロ作家と呼称される者にしても、川柳本来の在り方を説いている論説はほとんど見当らない。
「川柳は人間の詩である」と説いた六巨頭時代から見ると、個性のない言葉の寄せ集めだけの言葉遊びに浸っているだけとしか思えないものが大半の様に見受けられる。サラリーマン川柳やマスコミの流れに押し流されているかにも見える。
それに加えて川柳結社自体も昔の様な指導力はなく、只、人集めに奔走しているだけの会が殆どだと云っても過言ではない。川柳誌にしても、毎月の句会報で秀句・五客・三才と格付けだけで選評すらないものが多く、何の為に結社に入会しているのか疑問になる。川柳は斯くあるべきかを説いた文章など殆ど見当らない。その上選者にもよるが格付けの中に、これがと思える句が多いのには驚かされる。明治、大正を経て来た好作家や好指導者が次々と他界されたのにもあるが、半世紀前から見ると川柳も泥沼化した感もある。
川柳が人間の詩であるなれば、そこに己が居なくてはならない。十人十色でよい。その一色に自分を置かないと(それが個性だ)。自分の泥臭さをどれだけ表現出来得るかが川柳の命ではないのか。認められても認められなくても良いのではないか。これが自分だと言い切れる句が一番美しい。その中からやがて来世に残せる句が出来たら至上の喜びであろう。これが川柳に対する私の考えだ。
[27] (2006/11/25(Fri) 22:31:57)



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