静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
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「 子守唄 雑感 」  高瀬 輝男

老齢化、少子化の騒ぎは今後当分の間騒がれるだろうし、双方とも現代社会の産物とも言えるだろう。
老齢化はともかく、少子化問題は一日も早く解決したい問題だが、女性の権利などがあって一寸解決は難しいだろう。
少子化が進むと共に必然的に忘れられてしまうものに「子守唄」がある。
かつてはこの子守唄で母に背負わされ、安心して深い眠りについたものである。
子守唄というと大体何処の地域でも
 ねんねんのころりねんねしな
 坊やは良い子だねんねしな
と、いった文句が多かれ少なかれ入っていたものである。
しかし、地方のよってはその土地の貧困などによって悲惨というか、絶望的というか、これが子守唄か?と思われるものも大分あった事は否めない。
その代表的なもの(地元の方達には申し訳ないが)として「五木の子守唄」がある。見方によっては、これは「子守唄」ではなく「民謡」だという見方もあるが、いずれにしても恵まれないその土地に生きてゆかねばならない宿命といったものを感じるのは私一人だけではないと思う。
“花はなんの花つんつん椿
 水は天からもらい水”
を中心にした「五木の子守唄」は五木の女性たちの捨て鉢的な絶望感、そして愚直なまでに自分を愛し、命を賭け
た究極の世界ではなかったかと察しられる。

また、この「五木の子守唄」と似かよった子守唄に「米良の子守唄」がある。 
 “ねんねんころりよおころりよ
   ねんねしないと背負わんぞ
   ねんねしないと川流す
   ねんねしないと墓立てる”
貧しい土地柄、常に“死”というものと背中合わせに生きてゆかねばならない庶民の不安と絶望感で満たされていると言っても過言ではないだろう。貧乏の苦しさとはいえ、その文句に「殺意」さえ感じ、うすら寒くなってくる。
大体においてこのような子守唄には似合わない―といった文言の入っているのは、その土地の貧しさ、生きて行くのが並大抵ではない地方である。
その故でもあろうが、考えようによっては、これ等は「子守唄」と言うよりもその土地に生きて行かねばならない宿命的な「恨み節」であり、一種投げやり的な「なぐさめの唄」であったのかも知れない。
貧困な土地、そしてろくな肥料もなく、わずかばかりの作物頼って生きて行かねばならなかった人達の“血の叫び”であったかも知れない。現代のように、何処へでも好きな土地へ移り住むことの出来なかった時代の“苦”の産物とも言えるだろう。
現代に生きる私たちは、これらの「子守唄」の時代に対し、余りにも恵まれ過ぎていないだろうか?
目前の「石油危機」をチャンスに考えを改めてみる必要があるのではなかろうか?
[35] (2008/01/26(Fri) 09:25:03)



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