静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
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  疎  開  の  記  憶      静岡市  長澤 アキラ  

人間をある程度長い間やっていると、昔のこと、特に幼かった頃のことを、脈絡も無く思い出すことがある。
 私の父は海軍の職業軍人であったため、鎮守府の置かれていた神奈川県横須賀の軍港近くに、私は小さな頃住んでいた。その頃の話であろう、「キスカの撤退作戦」に駆逐艦「夕張」で救出に向い、見事米軍の鼻を明かした話は、父からよく聞かされたものであった。
 この横須賀で、一回目の空襲を経験する。窓ガラスがビビビビビと割れんばかりに震え、真っ赤に染まる。近くの小高い山の中腹に掘った、軍需工場にでもしようとしたのであろうか、大きなトンネルの中に、乾飯(ほしいい)と水とござを持って逃げ込むのである。
 子供の私には、一晩に二回迄は起きて逃げることは出来ても、三回目はもうどうしても起きられない。仕方が無いので母は、眠っている私を引き摺って逃げたそうである。
 空襲もひどくなり、静岡の母の実家に疎開することになる。
その静岡の実家では、母方の祖父は防空対策委員とでも言おうか、緊急時にメガホンと望遠鏡を持って、止めてあるトラックの下に潜り込み、その前輪の間から前方を眺めては、「敵機来襲、敵機来襲、みな避難せよ、みな避難せよ」と叫ぶのである。
私は、日がな一日その祖父について廻っていたので、こんな危険な避難先は無いということになる。
そして、この話のメインであり、三回目の避難先である清水の飯田村へ疎開するのである。その当時の飯田村は、今では想像も出来ない程の畑、水田地帯で、村から北の山裾までは、畑、水田ばかりであった。
そんな中で、悲惨な経験をするのである。
 母は弟を背負って逃げるので、私は村の人達と一緒に逃げることにした。しかし、五才に満たない子供の足では、一緒に逃げるのは所詮無理がある。そこで畦道の曲り角を、丸く丸くと距離をかせぐ。幾つか畦道を曲った所で奇妙な感覚を経験する。最初は何が何だか解らなかった。表面はカチカチに乾燥して、ペンペン草が生えている。踏み締めた瞬間、空気バネの上に乗ったようなクッションを感じる。そして次に持ち上げられるような感覚の後、一気にズズーンと落ちるのである。そう、肥溜めに落ちたのである。
 誰も助けてはくれない。一人で横の小川で下半身を洗い流す。その間にも、焼夷弾はヒューヒューと音を立てて落ちて来る。洗い終って皆の逃げた方向へ逃げるが、何処へ行ったのか誰もいない。仕方が無いので少し様子を見ることにして、木の根元や、農機具小屋の廂の下で野宿をする。まだ夜の明け切らぬうちに、村の方向を見るが、火はあがってはいない。そこで恐る恐る帰ったのであったが、これがまた大変な事になっていた。
 先ず第一声に母から「何処へ行っていたのだ!」とものすごい怒声で迎えられる。そして挙句の果てに、捜索隊を出す話まで進んでいたのである。
 今でも時々思い出すことがある。あの日は、私の人生で最悪の日であったと。しかし又、あの時から「運」がついたのではと、思う時もある。
人生は色々である。

[18] (2007/07/21(Sat) 09:49:34)



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