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愛犬「メリ」の回想(二) 静岡市     柳沢 平四朗

 昭和十一年頃だったと思う、名前は忘れたが物凄い大型の台風が遠州地方を襲った。街道を東西に流れる原野谷川は決壊し視界は湖と化した。刻々の増水は床上に迫っている。弟等を素早く安全な本家へ避難させた。先刻まで積上げた畳に蹲っていた「メリ」がいない。私は狂ったように名を呼んだ。土砂降りは一向に止まず、水はもう胸の辺りまで増えて来た。父さんは盥を用意し櫂はしゃもじである。「お前は早く本家へ行け「メリ」は俺が探して連れて行く」と怒鳴っている。
 早く見付かってほしい祈りで待った二十分間後、ぐしょ濡れの父さんと「メリ」が皆の前に現れた。安心とありがとうの感激で抱きしめ皆で泣いた。父さんの眼にも涙が光っている。それからの父さんは目を見張らせる愛犬家に変身して皆を驚かせた。
 此の頃から家業は、桑・唐辛子・菜種などの際物の商いに父さんは汗を流していた。中でも桑は蚕の繭ごもりの餌付けへ時間を争う商いである。養蚕家の注文は厳しく十五分遅れたらキャンセルになる商品である。
 目一杯詰めこんだ桑を一米立方のボーラ篭五個、リヤカーへ積み込む仕事は、父さんでも可成りの重労働らしい。こんな仕事に涙ぐましく引張り役で加勢してくれるのは三年目の「メリ」である。父さんからお礼に買って貰った
上等の首輪の雄姿は見るからに頼れる助っ人である。
 其の日は六キロ先の養蚕家から大量の注文が入った。でも先客の配達もあり時間的に無理で断るしかない。間に合えば後日に繋がる大養蚕家である。思案の末この注文を父さんは引受けたようだが問題は運搬である。
 いよいよ「メリ」の価値ある出番である。而し動こうとしない、何か元気がなく苦しそうでもある。約束の時間は迫り急遽、弟二人がリヤカーの後押しに頼まれた。母さんも私も小さい弟等の後姿に済まない祈りの手を合わせた。
 こんな大事な時に間を欠いた「メリ」へ父さんのご機嫌は頗る斜めである。
悄気返る「メリ」を皆で囲むと理由が判った。驚いた事に前足後足へダニが食いこんで腫上っている。これでは痛くて歩けなかったであろう、私は心の中で詫びた。暴れるので抱きかかえてダニを取った。其れからは日に日に元気を取戻し、リヤカーの傍で待機している「メリ」がいとおしかった。父さんの家業に欠かせぬ存在感へ可愛がった五年間余、天敵のジステンパーに罹り短い生涯を、家族の涙に包まれて昇天した。老いの脳裡に焼きついている「ありがとう・メリ」の回想記である。

[28] (2006/12/26(Mon) 09:25:03)



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