静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
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浜 さ の こ と   浜 松 市 寺 脇 龍 狂

「老人クラブへ入れやい」六十歳になったばかりで、まだ製材所に勤めていた私に浜さが顔を見るたびにそう言いました。「まだ仕事をしているので」其のうち入れてもらうよと体よく断っていたが再三再四の勧めで、つい断りきれなくなって勤めながら町の老人クラブの仲間にして貰いました。昭和三十八年天竜市の山の中から中瀬へ出て来た私はある日笠井街道で一人の老人を見かけました。丸顔で少し色は黒いが見るからに人のよさそうなおぢいさでした。何だどこかで見たような顔だがすぐには思い出せずこの人が昔生まれ故郷の村へ「竹箕」を売りに来た「浜さ」だと分かるまでに半年もかかりました。
終戦後浜さは毎年春になると「竹箕」を担いで私の村へ行商に来ました、人のよさそうな童顔で悪強いするでなく村の人も重宝して何となく当てにして待っていました。決まって私の家で弁当を使ったのです。母が小商いをしていたので行商の人が皆昼飯を食べました。
やがて私も仕事を辞めて今度は正式に老人クラブへ入会し町のお年寄りとお付き合いすることになりました。そうして又浜さに勧められてゲートボールの仲間になりました。
既に米寿に達していた浜さはまだ元気でゲートをしている時が一番楽しそうで、毎日親切に教えてくれました。年は取っても浜さはいつもニコニコしながらゲート場の草を取ったり腰掛けを直したり色々やってくれました。そんな浜さも年には勝てず動作も鈍くなりました。家族からゲートボールをやめるように言われたのは其の頃です。
唯一の楽しみを奪われた浜さはすっかり悄気て元気がなくなりました。皆「気の毒に。もっとやらせりゃいいだに」と話しましたが、ゲートをするにはコートまで行かなければ出来ません。家の人は往来の事故を心配したのです。ムリもない話です。目標のなくなった浜さは家にこもり滅多に外出しなくなり、其のうちとうとう寝込んでしまいました。そのころ会長だった私が時々覗きに行っても最初の頃は対応できたが、段々話も出来なくなり、半年ほど一人娘に手厚く看取られて帰らぬ旅路につきました。
若い頃山の方へ商売に行っていた浜さは私より村の事情に詳しく、近所の「おひろ」ばあさの若い頃の艶話までよく知っていて私はびっくりしました。
浜さが終の日となった離れはまだそのまま残っています。世俗を超越し、威張らず逆らわず愚痴もこぼさず、いつもニコニコ好々爺の見本のようだった浜さが前を通ると「寄ってけやい」と呼んでいるような気がします。
[36] (2008/02/26(Mon) 09:25:03)



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