静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
トップページへ







神  の   国

望 月 弘


 子供の頃の夢は兵隊さんだった。
「召集を食って兵隊に行った。」という世間話を聞きかじり、「召集を食いたい。」と親を困らせたらしい。
 ある時、家族でしる粉を食べた。これが召集だというと、喜んで食べたそうだ。しかし、「召集をいっぱい食ったのに、どうして兵隊さんになれないのだ。」と親を困らせたらしく、後に、母親から聞かされた。
 昭和十七年四月、国民学校に入学。ラジオから聞こえる大本営発表の戦果に、こども達の小さな胸も戦争一色に駆り立てられていった。遊びも戦争ごっこが主流で、竹の鉄砲や刀を自分達で作って、神社の境内や野山をかけずり廻ったものだ。
日曜日はお宮(氏神)さんの清掃が子供達の仕事で、子供心にも銃後の守りをまかされている心意気でもあった。
ある時、剥がれかかった杉の木の皮を箒で落したT君が、上級生からこっぴどく叱られた。「神木を箒で傷付けるとは何事だ。」と。神社は神国日本の象徴であり、境内にある全ての物が神である天皇陛下のものであると教育されていたからだ。
 又、ある時下級生だったH君が遅れてきた。早速上級生に問い詰められると、目を白黒させながら、「だって、雑煮が熱くて早く食えなかっただもの・・・。」と答えた。当時は主食も麦や芋の雑炊ならまだしも、草や木の芽も食べていたので、みんな痩せこけていた。
 召集や志願で出征する人を、神社の境内で武運長久を祈って、集落全体で送り出すのが習わしだった。「元気でいきます。」と挨拶する人と「元気でいってきます。」と云う人があり、天皇陛下に命を捧げて死を覚悟で出征するのだから、「いきます。」は男らしいが、「いってきます。」は女々しいとまで噂される恐ろしい時代だった。
 終戦間近の昭和二十年頃になると、白木の箱で帰還する人が目立つようになった。その頃出征兵士を送る際に、友達のK君が、「帰ってくる時は白木の箱だったりして。」と冗談めかして口にした。そして、「縁起でもない。」と叱られた事があった。
 白木の箱での帰還はこの上なく名誉だと教えられていたので、悪気ではなく誉めたつもりだったと思う。でも、今考えると何て失礼なことだったと思う。その人は終戦後無事帰還された。本当によかったと思っている。

[9] (2005/12/09(Thu) 00:43:39)



戦後60年特集11 >> << 戦後60年特集 8
Copyright © 静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー. All Rights Reserved.