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霜石コンフィデンシャル57     高瀬 霜石


「 川 柳 さ ん 」
 今年我が業界(?)は大いなる節目を迎えている。世の人々は多分知らないだろうが――結構宣伝はしているがなにせマイナーな文芸だから――「川柳二五〇年」ということで、数々のイヴェントが組まれている。
 江戸時代半ばに、柄井川柳という人がいた。浅草の明主の家に生まれ、前句付けを選ぶ才能に優れていた。「前句付け」というのは、まず、点者(選者)が題を出すそれが前句というものである。
 例えば「切りたくもあり切りたくもなし」と出題された人は、前句にピタリと合う五・七・五を考えて、入花料(選考料)を添えて提出する。有名な句に、《盗人を捕らえてみれば我が子なり》がある。
 聞いたことありますよね。子供に甘過ぎる親。気がついたら、なんと息子はドラになっていた。アーア。
 題は、たいていは同じ言葉を繰り返す。例えば、「せわしない事せわしない事」という具合。そして、《昼買った蛍を隅へ持ってゆき》となる。
 蛍を買ったが、夜になるのが待ち切れなくて、家の隅に持っていって光るかどうか確めてみる。こういう子供心は、昔も今も変わりはないということだ。

人気が高まるにつれて、コンクールは盛んになる。主催者が点者から興行師(プロダクション)に移り、彼らが題や締め切り日や入花料を書いたチラシを配り句を集めた。高点句は印刷し、賞金や反物が当たった。
 当時、たくさんの点者がいたが、柄井川柳は江戸随一の目利きとして人気があった。評判の高い点者に選ばれれば江戸っ子の鼻も高くなるという寸法だ。
 彼は仲間と相談して、自分が選んだ句を集めた本『誹風柳多留』を出す。これがベストセラーになった。
 そうなると柳の下のドジョウを狙って、出るわ出るわ。川柳さん(初代)が亡くなった後も、タイトルを『新編柳多留』などと変えたりしながら、幕末まで延延、二百冊以上刊行されたという。
 呼び名も「前句付け」から「雑句」「雑俳」など様々だったが、明治の半ばになって「川柳」に落ち着く。個人の名前が、文芸の名称になったわけだ。
 さて、初代川柳の作品はというと、実はない。彼の辞世とされる《木枯らしや跡で芽をふけ川柳》も、本人の作かどうかアヤシイという。彼は生涯点者に徹した。選んだ句は三百万句といわれている。

霜石コンフィデンシャル | Link |
(2007/11/26(Sun) 08:38:05)

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