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霜石コンフィデンシャル58     高瀬 霜石

「次男坊物語」

 前号で、今年は「川柳二百五十年」の節目の年と書
いた。忘れてはいけない。ここ津軽でも「陸羯南生誕
百五十年・没後百年」という一大行事があった。
羯南は、反骨のジャーナリストとして厳しく政府批
判をしつつ、子規を公私共に擁護し、新聞『日本』に
活躍の場を与えた。彼が紙上で短歌と俳句の革新運動
を展開していったことはあまりにも有名な話だ。
 でも、忘れてはいけないことが一つある。羯南の―
というか『日本』の―テーマは《ペンは剣より強し》
であったはずだ。ならば庶民の文芸「川柳」をないが
しろにしていいわけがない。
 羯南研究家は全く触れていないが『日本』にはちゃ
んと「川柳欄」があった。新川柳はそこを舞台に芽生
えてゆくのだから、羯南は川柳の大恩人でもあるのだ。
 川柳欄を担当した井上剣花坊の弟子に、吉川雉子郎
(後の小説家・吉川英治)や、後年《川柳の神様》と
呼ばれた川上三太郎がいる。三太郎は本県とも縁が深
く、龍飛岬に句碑がある。その三太郎の弟子の一人に
今年亡くなった時実新子がいる。句碑嫌いで有名だっ
た彼女の句碑が、下北半島・川内町にある。
「津軽半島にある師匠・三太郎の句碑と、海を隔てて
向かい合ってはどうですか……」と、口説き落とした
という。女性の自立を訴え続けた激しい女・新子も、
ロマンチックな言葉には弱かったのだ。
「短詩型文芸は、三人きょうだい。短歌(和歌)は一
番上のお姉さま。なにせ万葉の頃からの歴史がある。
俳句はちょっと年上の真面目なお兄さん。そして川柳
は、やんちゃ坊主の次男坊。この次男坊、姿形は兄と
瓜二つ―なにせ同じ五七五―なのだけれど、性格は
姉のほうにそっくり。このお姉さんはとても情熱家。
その証拠に、百一首の七割は恋の歌だもの」
《昭和の与謝野晶子》と謳われた新子の言葉である。
 季語や切れ字のルールがあり、文語体の俳句を、真
面目な長男。時事性やユーモア度が高く、口語体の川
柳を、やんちゃな次男坊と例えたのは実に見事だ。
 長嶋、王、野村、イチロー、ゴジラ松井、野球に興
味のない人でも知っているこの人たちは、全員次男坊。
 若い夫婦の皆さん。次男坊に挑戦をしましょうよ。
甲子園で大活躍すれば、これが本当の《孝行野球》。そ
ういえば、ハンカチ王子も次男坊なのですよね。
[29] (2007/12/26(Tue) 08:38:05)



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