静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
トップページへ






豊かな水資源 大切に 仙台市 真田 義子

 鹿児島の私の実家では、今でも地下水をくみ上げて利用しています。夏は冷たく、冬はあたたかで美味しいです。日本の水の豊かさと安全は世界一ではないかと私は思っています。
 蛇口をひねれば、その安全な水がそのまま飲めるのが当たり前なのですが、海の向こうでは事情が異なります。海外旅行に行った際のこと。まず水道水は飲まないようにと注意されます。レストランでは水も買って飲みます。ところによってはビールより高くつきます。私たちにとって「水ぐらいは無料で出してよ」と、言いたくなります。多くの国でそんな体験をしました。
 あるテレビ番組でアフリカのある地方で、水を三キロ先から汲んで使っていましたが、きれいな水ではなくて泥水でした。子供たちが平気でそれを飲んでいるのを見て涙が出ました。
 そこに日本人が行って、井戸を掘って成功し、今ではきれいな水を飲んでいるシーンを見て、涙が出るほど嬉しかった。日本に住んでいると、水の大切さは忘れてしまいそうです。
 黄河の水も年々減ってきていることが分かっているそうです。雪も少なくなってきている温暖化の今、水の大切さをもう一度考えてみる必要がありそうですね。


「近 詠」 真田 義子
 平凡な一日星が美しい        
 ゼロからの出発風があたたかい    
 どの窓を開けても虹が見える幸    

巻頭沈思考 | Link |
(2009/06/29(Sun) 13:56:24)

이수민(イスミン)ちゃん(韓国人)との出会い 仙台市 大塚 徳子

 日溜まりで蓬を摘んでいたスミンちゃんに声を掛けたのが出会いの始まりでした。
韓国で小学校の先生をしており、日本語の勉強に、旦那さんは東北大学で学ぶため、子供さん一人を連れての留学でした。
 スミンちゃんとは何故か馬が合い、日本語を教えてと招かれました。
両手を差し出して迎えてくれる、なんともううれしいものでした。
日本語を教えるどころか、いまさらながら、とても難しく、反対に教えてもらう始末の有り様でした。
 また、三才の男のお子さんはまるで友達のように待っていて、オムツも取れていないのに、上手にマウスを使い、私も写っている画像をみせてくれました。
 ちじみ、朝鮮漬け、ナムルなど実際に作って食べたり、食文化を肌で感じることができました。
 韓国では「年金制度」がないので、子が親を見なければならないそうです。もしも、お母さんがいなくなったらどうしょうと、絆の強い結びつきを感じました。
 また、戦争のことも、お話になりました。 「日本人はどんな悪いことをしたのでしょうか」私は何も返事ができませんでした。 「これからはお互いに仲良くしたいものですね」とも言っておられました。
 日本語と韓国語を共に勉強をした、楽しい二年間でした。三〇才も、若い友達、안녕하세요(こんにちは)そして감사합니다(ありがとうございました)

 留学生の夢の溢れるワンルーム 徳子

巻頭沈思考 | Link |
(2009/05/29(Thu) 13:45:08)

これってサーカス?  静岡市  川村 洋未

「ダイハツ・コルテオ」カナダ発世界のシルク・ド・ソレイユを観た。原宿に忽然と現れたネイビーブルーの三角テント。この中はまさに、世界のサーカス夢の国だった。二万円の交通費と入場料は、それにふさわしい、いえ、それ以上の感動をくれた。ちなみに、チケットは、大人一万三千円(土日料金)SS席で。
でも言葉では表せない、それこそ、「百聞は一見にしかず」を身をもって知らされた二時間だった。
まず音楽は生演奏。もちろん全曲オリジナルで歌もある。暗い中、天使が降ってくる、太いリボンに身をあずけ、空中を舞い踊る。ピンヒールをはいて綱を渡りきり、腕をブランコにして、天使をあちらこちらへ。大きな風船で客席まで来る、ヘリウムダンス。
とにかく、人間の力と技、お互いの信頼があればこそできる素晴らしいパフォーマンスだ。
しかも、コルテオは世界初、360度どこからでも観られている中でのエンターテイメント。これこそが現実とは信じられない、夢の世界だ。
全てのパフォーマーは、オリンピック選手だったり、その競技のプロ中のプロ、という中からオーディションを受けて選ばれたえりすぐりの人達ばかりだ。そして、今回のコルテオには、たった一人日本人の男性がいた。スクエアに組まれ、なお、両側に置かれた鉄棒で、同時に8人がくり出すスピーディーな動き。一歩
の狂いが大怪我を引き起す、そんなパフォーマンスを彼は、軽々とやってのけ、拍手喝采を浴びていた。
 人間の智恵と勇気と、自分の限界に挑む力、それに平和だからこそできるエンターテイメント、それが私の観たコルテオだった。
 ぜひ、ぜひ、多くの人に観てもらいたいと思い、今回このチャンスに書かせてもらえて本当に嬉しかった。ありがとう。
 
もし、時間があって、給付金の使い道が決まっていなかったら。少しプラスするか、ピッタリでコルテオを観に行ってほしい。5月5日までは東京で、あとは名古屋へテントごと大移動だ。
 そして、最後のカーテンコールで、二百人に近いパフォーマーとスタッフが手を振る姿を見て、来てよかったと思うのは、決して私一人ではないはずだ。
巻頭沈思考 | Link |
(2009/04/07(Mon) 14:08:54)

東葛川柳珍道中 浜松市 今井 卓まる

 2009年1月24日(日)午前四時半、目覚まし時計のベルが鳴った。いつもと同じ音なのだろうけど、僕の耳にはいつもと違うように聞こえたベルの音は、僕たち親子3人の特別な日の門出を祝う『出発ベル』のように思えた。
 僕たちは、千葉県柏市で行われる『第十七回今川乱魚ユーモア川柳大賞』の表彰式に出席するために早起きをしたのだ。実は、うちの侑(女・小一、特技・給食のおかわり)がジュニア特別賞なるものを頂いてしまったのだ。僕が去年の4月に川柳を勧められ、侑にも試しにやらせてみるかな?という軽い気持ちで、お父さんからの夏休みの宿題ということで応募させてみたら、こんな結果になってしまった。(侑にとっては、初詠に等しい句であった)
 柏に向かう道中は、やはり僕たちらしい旅だった。まず仕出かしたのは、うちの嫁・正美。浜松駅に向かうタクシーに乗ろうとした瞬間、『あっ、ケータイ忘れた』家に戻り探したがケータイはなく、結局持っていた鞄のなかにあったのだ。次は侑。高速バスが首都高を降り、国会議事堂が見えてきた辺りで、眼をキラキラ光らせながら『ピラミッドだ!』僕と正美は『おい、お〜い。』と言いながら顔を見合わせた。また少し経つと『ダム?』正美は、間髪入れず『ちがう違う!皇居のお堀。』侑は舌が回らず『皇居の氷?』そんな感じで
東京駅に到着し電車の乗り換え、いざ柏へ!
 柏の駅を降りると身に凍みるような寒さだった。気温を示す電光掲示板の表示は2℃だった。会場の到着して受付を済まし、『東葛川柳会』のスタッフの方々にパソコンで自作した名刺を持ち挨拶に回った。今川乱魚さん、江畑哲男さん、中澤巌さん、大戸和興さん、植竹団扇さん、成島静枝さん、田制圀彦さん、皆さんとても良い方ばかりで、僕たちを歓迎してくれた。
 そして、本日のメインイベントの表彰式!普段は甘えん坊で、知らない人の前では正美の手やら腕を握って離さず、後ろに隠れてモゾモゾしがちだった侑なのだが、当日は主催の方々への挨拶もシッカリとでき、表彰式でも凛々しい姿を見せてくれた。
 賞状と副賞と娘の句をタイル焼きにして頂いた記念品を小さな腕イッパイに抱え、満面の笑みで記念撮影をして頂いた時の堂々たる娘の姿を見ていたら、『こうやって徐々に僕から離れて、大人になって行くんだなあ・・・』って感じてしまった。表彰式を終え、侑と正美はさっさと帰っていったが、僕は引き続き参加者約150名の句会に参加した。たかねの句会しか知らない僕は物凄く緊張した。句会の結果はイマイチであったが、僕にとって良い経験となった。
 最後に、入賞した侑の句と一次選考を通過した僕の句を記して結びとしたい。

 おとうさんなぞのポケットありますね   侑
 あれ居たの僕と妻との合言葉      卓まる



巻頭沈思考 | Link |
(2009/03/29(Sat) 13:41:39)

ある疑問 高瀬 輝男

 無脊髄で複数の翅、そして複数の脚を持つというのが、いわゆる「昆虫」と称される条件のようである。そして私の目の前を小さな小さな、名も知らぬ虫が翔んでいる。それこそ身体全体の大きさは1ミリにも満たぬゴマ粒よりも小さな虫である。多分昆虫の一種と見ていいだろう。
 と、すると幾つかの疑問が湧いてくる。こんな小さな虫でも何かを食べるとか、何かの方法で“食”が絶対に必要である。更には飛んでいるという事は翅も必要だ。また、当然子孫を残さなければならない。その為にはメスとオスが居るだろうし、或いは巣や卵なども考えられる。
 わが家での最大のレンズを以ってこれ等を監察しようとしたが、四倍ぐらいでは何一つわからない。食事の方は吸うとか飲むという手もあるし、巣など別に必要ないのかも知れない。
残された問題はどういう方法で子孫を残すか?である。どうも助平の私はこうなるとセックスの方へ頭が行ってしまう。こんなゴマ粒にも満たない生き物に性器というものがあるのだろうか?いや、無とするならば子孫は残せない。また、卵からとするならば母体自体がゴマ粒ほどの大きさなのにどんな卵を産むのだろうか?それより性交というものは・・・?等など考えると眠れなくなってしまいそうだ。
 クラゲの研究でノーベル賞を戴いた学者が出たが、私もこの小さな小さな生物を研究してみたいものである。惜しい事にどうも私の頭では一寸無理なようだし、研究に必要な用器具を手に入れる程の財産もない。
 止むを得ず、残念ながらノーベル賞は断念の外なおようだ。どなたか私に変って研究して頂きたいもの。せめて子孫を残す方法とか手段を私が生きているうちに知りたいと思っている次第。 

巻頭沈思考 | Link |
(2009/02/22(Sat) 13:35:15)

瀬戸内中年カメラマン 伊豆市 谷口さとみ

この夏の終わり、学生時代以来の夏休みを過ごした。一週間もらえたので念願の撮影旅行を決行。機材が多いことと、時間的な制約が一番邪魔なため、頼もしいランクル(トヨタ・ランドクルーザー)を足と宿にして全行程1,340キロ、五泊六日の旅になった。
 二ヶ所の撮影ポイントと最終目的地が瀬戸内の真鍋島であること以外、コースも時間もすべて太陽の位置と気分しだい。観光客や住民が宿や家に帰った後、まだ夕陽の位置に拘って、ひたすら待ち続けられるのも、早めにビールを呑んで寝ちゃったり、夜半に目がさめてそのまま少し走り出せるのも、宿を利用していないからこそ。
 今回、道の駅や高速道路の進化にびっくりしたが、一番驚いたのは真鍋島。ここはあの『瀬戸内少年野球団』などのロケ地になっている所だから、てっきりカーフェリーでロケ隊が渡っていると思ったのに、事前の問い合わせに「ないけど六千円くらいでチャーターすればOK」と返事。迷ったが「もったいない」と、車は岡山に置いて、荷物をリュックとキャリーにまとめ、住民の足のようなフェリーでいざ島へ。と、降り立った私たちは一瞬佇み、同時に大声で笑った。なんと船着場前の百メートルほどのエリア以外、猫が遊ぶ細い坂道が曲がり曲がり通っているだけ。
 「チャーターしてランクルで降りてたら、地元NHKあたりがとんで来たかもね」。それでも何台かのバイクと軽トラを見かけたので、島に一件だけの食堂で、おじさんにタコ飯とそうめんを作ってもらいながら「この島の車の車検はどおすんの?」と訊いたら、足元の猫に話すような口調で、「ナンバーなんか、付いてへんでぇ」(!)改めて見るとたしかに。
 これって他言無用かなと思ったけど、島に交番あったんだから・・・いいよね。

巻頭沈思考 | Link |
(2008/11/29(Fri) 13:17:23)

こんにちは捨て犬です 青森県 濱山 哲也

「たかね」の皆さんこんにちは。鰹さんからの依頼でミニエッセーを、と。でも折角の機会でもあるし、僕も「たかね」の仲間と自負している以上、自己紹介をしておくのが仁義ではないかと初回(次回の依頼はないが)はご挨拶とさせていただきます。
 川柳(文芸)を始めてようやく2年が経った(「文芸」としたのは、それまでは気が向けば投稿川柳や時事川柳などに出して楽しんでいた。それまで文芸川柳に題詠があると知らなかった)。ペンネームは“捨て犬”だった。ある日、弘前の紀伊国屋書店で“青空もうひとつ”という川柳とエッセーの本を見た。霜石コンフィデンシャルを書いている高瀬霜石師(あえて師とする)の本だ。霜石さんの句は地元の新聞で目にしたことがあり、心に残るものばかりだったのですぐに買った。本の最後に住所があったので『どれちょっと行ってみっか』とその足で霜石邸へ。これが運悪く居たのだ(普段、土日は映画とか遊び回っているので居ない)。「さあ上がれ」元来話の上手い人なのでついつい引き込まれてしまう。「よし、君も弘前川柳社に来い」僕の中で『やばい』という3文字がけたたましく鳴る。このままじゃ“押さえ込み一本”を取られる。ときは6月だったので「これから夏だし、我が家は商売だから忙しい。秋になってから・・」とその場は“技あり”だけで済んだ。しかし、話術に加え筆まめなのが霜石さんの悪魔たる所以。川柳の資料を送ってくれたり、とうとう“合わせ技一本”負けである。9月、霜石さんに連れられ弘前川柳社へ。
「こんばんは捨て犬です」と名乗ったものだからさあ大変。『霜石はこの犬にお手も教えてないのか』という雰囲気。個々に挨拶するたびに「ふざけてる」との指摘。霜石さんが「哲也って柳号は無いから哲也でいいんでねが」で落着(おそらくこいつは長続きしそうもないから柳号を考えるだけ無駄だと思ったに違いない)。そして、けたたましい日々はすぐに始まった。「ところで明後日は川柳忌黒石大会だから出るように」と『明後日・・大会・・?』ことの重大性を分からぬ僕は、黒石は大好きな渓流釣りのメッカ。「じゃ句を出したら釣りに行ってもいいですか?」そのときの僕にすれば当然、聞かれた方は憮然「そんな時間無いと思うけど」って疑いの眼差し。それ以来、川柳に釣られてしまった。という次第。
 
昭和三十六年生まれ、家族は、母、妻、息子。
趣味は、渓流釣り(地元は海だが海はやらない)、映画鑑賞・音楽鑑賞・ドライブ。
ペットは、岩魚一匹(釣ってきた)。
好きな川柳作家、新家完司・徳永政二・高瀬霜石・・などなど。
どうか今後もよろしくお願いします。

巻頭沈思考 | Link |
(2008/10/07(Mon) 14:04:32)

野田気質 千葉県野田市 成島 静枝


 神奈川は足柄に住む友達から電話が掛かってきた。元勤務先の同僚で結婚後移り住んでいる。内容は地域でボランティア活動をしている会の旅行で野田のキッコーマン工場を見学に行く事になった。ついては昼食場所を探して欲しいという依頼だった。多分福祉協で市のバスを利用して来るのかも知れない。実際私達も同じような事をやっている。条件は@二十五人の団体でバスA見学は13時から予定B清水公園も有名(桜の百選)行ってみたいC帰りに浅草に寄りたいDパンフレット送って等々。早速リサーチ開始!キッコーマン見学コース「ものしり館」は我が家のすぐ近くにある。春秋の遠足シーズンには小学生の山が出来、少人数で見学できるので一般の人も良く来ている。しかし周辺は工場と倉庫なので昼食場所がない。まず清水公園のレストランに問い合わせてみた。人数分の席は用意可、お弁当は希望価格で作れるとのこと。街中の食事処はネットで検索、ついでに「ものしり館」を見ると、仕出し弁当の注文が出来、施設内で食べられるとある。これは知らなかった一番早いじゃん!調べた結果を3つの案にまとめて資料と地図、来る日が決まったら逢いにいくとコメントを入れ送った。訪ねてくれるのは嬉しい限り、楽しみが出来た。
 私は嫁いできた頃、この古い街が嫌いだった。高層ビルもなく駅を降りると醤油臭かった。典型的な企業城下町で、第1〜7工場が建ち並び、その周辺に職人町、近隣では一番栄えていた。醤油の歴史は江戸時代に遡る。キッコーマンは大正6年野田醤油(株)として出発し、商標は「亀甲萬」。昭和2年にキッコーマンと社名を変更している。義理人情に厚く、昔気質の仕来りが色濃く残り、しっかり守る姑がいた。なかなか馴染めない私はこれが苦手だった。いまも歴史のある建物や施設、レンガ塀と旧家が市内に点在、江戸川べりに宮内庁御用達の醤油を造る御用蔵(ミニお城)がある。
 こんな街に住んで四十年、住めば都になってきてしまった。今では都会にはない特徴のある景色がむしろ好きになっている。工場の原料サイロ、煙突、出入りする車、大欅の並木等々、機械化が進み匂いもあまり感じない(嗅覚も住み慣れたか)近年この古きを訪ねる人が増え「街ガイドボランティア」を頼んで散策している。カメラ片手に歩いている人も少なくない。小さいながら美術館ができ、梅原画伯の一点物もある。近隣の街に新交通網が出来、急激に発展していくなか旧態依然のこの街、これはこれでいいのかなと思うが商店街や市役所は「街の活性化」に躍起になっている。昔気質の姑が亡くなり、気がつくと娘に「古いねえ」と言われる自分が居た。思考回路もこの街にどっぷり漬かり、姑と同じ古くさい事を平気で言っている私に、根っこが生えたのかも知れない。



巻頭沈思考 | Link |
(2008/09/29(Sun) 13:12:48)

「ふるさと人物風土記」   柳沢 平四朗 


「冬枯れの中に家居や村一つ」遠州は生家袋井駅の一隅には俳聖、正岡子規の句碑がある。昭和三十二年地元のクラブの人達によって建立されたと言う。一世紀前この年に開通した東海道線で郷里松山への帰途、袋井を通りかかった際の即興句で名句の一つであると聞く。吹きすさぶ空っ風の鳴る、乾いた田舎の風情を車窓に画いたのであろう。
此の生家を後にして五十年余り、時折尋ねる町並に隔世の威を強くする。現在では周囲の町村を合併して人口も膨らみ、区画整理も進んで理工科大学やエコパの存在が中核都市への変貌を誇っている。
 俳聖の詠んだ此の薄ら寒い故里でも、スポーツ界へ官政界への出色の有名人が多いから驚きである。而も生家の界隈だから尚更である。
 今、サッカー王国と呼ばれる郷土もかつては野球王国と言われた時代が有った。
先日静岡新聞社発行の「しずおかプロ野球人物誌」を見た。昭和十一年にプロが日本へ発足した。五球団の一リーグで七十年も昔の事である。
こんな小さな空っ風の町から日本のプロ野球選手が活躍していたなんて自慢せずにはいられない。セネタースの掛井さん、ロビンズの天野さんである。また慶応大学の強打者外野手で鳴らした根津さんも、あの学徒出陣で巨人軍のユニフォームを幻にしてしまった。
 此の人達より十年も若い池田和(やわら)さんは、袋井商校で投打にも勝る選手で、大学への将来を期待されていたのに、いきなりプロ球団のテスト生で転々、球界のジプシーと渾名された。大成しなかった池田選手に周囲の人達は力を落した。
 生家の両隣には旧制中学時代に名を馳せた二人の選手がいた。掛中(現掛西)の名ショート村松国夫さんは卒業後、都市対抗の藤倉電線で活躍、水泳のオリンピック候補で期待された笹原文太郎さんは其の後満鉄へ就職したが残念ながら戦死した。
 島田商業の黄金期、名捕手で人気者の松下嘉一さん、弟の茂さんは投手で兄弟バッテリーを組んでいたが甲子園の二回戦で惜敗した。
 その翌年、和歌山の海草中学との決勝戦は今なお忘れられぬ興奮の町になった。皆、隣近所の顔見知りだから鼻高々である。
 官界政界でも傑出した人物像で輝いていた。文献に依ると戦前、母校の西小の隣に陸軍中将柴山重市閣下、官内大臣枢密院議長一木喜徳郎氏、弟さんである岡田良平氏は文部大臣、警視総監の小栗隆平氏の方々は皆々袋井市出身であるから驚きである。満鉄から政界への転出した足立篤郎氏は農水大臣を務め、現在活躍中の代議士柳沢伯夫、イギリスはロンドンの在外公館公使を五年間勤めた柳沢逸司は私の身内である。
 静岡人は進取の気象に乏しいと言われるがそんな事はない。サッカーでもエコパを擁うして将来日本代表になり得る卵が二つ三つ育っていると聞く。
 俳聖が行脚した空っ風の鳴る故里の面影はない。近代的小都市としての躍進に大いなる喝采を惜しまない。
昔日を疎遠の里が温かい 平四朗
巻頭沈思考 | Link |
(2008/06/26(Wed) 09:25:03)

 

Copyright © 静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー. All Rights Reserved.