静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
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東葛川柳珍道中 浜松市 今井 卓まる

 2009年1月24日(日)午前四時半、目覚まし時計のベルが鳴った。いつもと同じ音なのだろうけど、僕の耳にはいつもと違うように聞こえたベルの音は、僕たち親子3人の特別な日の門出を祝う『出発ベル』のように思えた。
 僕たちは、千葉県柏市で行われる『第十七回今川乱魚ユーモア川柳大賞』の表彰式に出席するために早起きをしたのだ。実は、うちの侑(女・小一、特技・給食のおかわり)がジュニア特別賞なるものを頂いてしまったのだ。僕が去年の4月に川柳を勧められ、侑にも試しにやらせてみるかな?という軽い気持ちで、お父さんからの夏休みの宿題ということで応募させてみたら、こんな結果になってしまった。(侑にとっては、初詠に等しい句であった)
 柏に向かう道中は、やはり僕たちらしい旅だった。まず仕出かしたのは、うちの嫁・正美。浜松駅に向かうタクシーに乗ろうとした瞬間、『あっ、ケータイ忘れた』家に戻り探したがケータイはなく、結局持っていた鞄のなかにあったのだ。次は侑。高速バスが首都高を降り、国会議事堂が見えてきた辺りで、眼をキラキラ光らせながら『ピラミッドだ!』僕と正美は『おい、お〜い。』と言いながら顔を見合わせた。また少し経つと『ダム?』正美は、間髪入れず『ちがう違う!皇居のお堀。』侑は舌が回らず『皇居の氷?』そんな感じで
東京駅に到着し電車の乗り換え、いざ柏へ!
 柏の駅を降りると身に凍みるような寒さだった。気温を示す電光掲示板の表示は2℃だった。会場の到着して受付を済まし、『東葛川柳会』のスタッフの方々にパソコンで自作した名刺を持ち挨拶に回った。今川乱魚さん、江畑哲男さん、中澤巌さん、大戸和興さん、植竹団扇さん、成島静枝さん、田制圀彦さん、皆さんとても良い方ばかりで、僕たちを歓迎してくれた。
 そして、本日のメインイベントの表彰式!普段は甘えん坊で、知らない人の前では正美の手やら腕を握って離さず、後ろに隠れてモゾモゾしがちだった侑なのだが、当日は主催の方々への挨拶もシッカリとでき、表彰式でも凛々しい姿を見せてくれた。
 賞状と副賞と娘の句をタイル焼きにして頂いた記念品を小さな腕イッパイに抱え、満面の笑みで記念撮影をして頂いた時の堂々たる娘の姿を見ていたら、『こうやって徐々に僕から離れて、大人になって行くんだなあ・・・』って感じてしまった。表彰式を終え、侑と正美はさっさと帰っていったが、僕は引き続き参加者約150名の句会に参加した。たかねの句会しか知らない僕は物凄く緊張した。句会の結果はイマイチであったが、僕にとって良い経験となった。
 最後に、入賞した侑の句と一次選考を通過した僕の句を記して結びとしたい。

 おとうさんなぞのポケットありますね   侑
 あれ居たの僕と妻との合言葉      卓まる



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(2009/03/29(Sat) 13:41:39)

ある疑問 高瀬 輝男

 無脊髄で複数の翅、そして複数の脚を持つというのが、いわゆる「昆虫」と称される条件のようである。そして私の目の前を小さな小さな、名も知らぬ虫が翔んでいる。それこそ身体全体の大きさは1ミリにも満たぬゴマ粒よりも小さな虫である。多分昆虫の一種と見ていいだろう。
 と、すると幾つかの疑問が湧いてくる。こんな小さな虫でも何かを食べるとか、何かの方法で“食”が絶対に必要である。更には飛んでいるという事は翅も必要だ。また、当然子孫を残さなければならない。その為にはメスとオスが居るだろうし、或いは巣や卵なども考えられる。
 わが家での最大のレンズを以ってこれ等を監察しようとしたが、四倍ぐらいでは何一つわからない。食事の方は吸うとか飲むという手もあるし、巣など別に必要ないのかも知れない。
残された問題はどういう方法で子孫を残すか?である。どうも助平の私はこうなるとセックスの方へ頭が行ってしまう。こんなゴマ粒にも満たない生き物に性器というものがあるのだろうか?いや、無とするならば子孫は残せない。また、卵からとするならば母体自体がゴマ粒ほどの大きさなのにどんな卵を産むのだろうか?それより性交というものは・・・?等など考えると眠れなくなってしまいそうだ。
 クラゲの研究でノーベル賞を戴いた学者が出たが、私もこの小さな小さな生物を研究してみたいものである。惜しい事にどうも私の頭では一寸無理なようだし、研究に必要な用器具を手に入れる程の財産もない。
 止むを得ず、残念ながらノーベル賞は断念の外なおようだ。どなたか私に変って研究して頂きたいもの。せめて子孫を残す方法とか手段を私が生きているうちに知りたいと思っている次第。 

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(2009/02/22(Sat) 13:35:15)

瀬戸内中年カメラマン 伊豆市 谷口さとみ

この夏の終わり、学生時代以来の夏休みを過ごした。一週間もらえたので念願の撮影旅行を決行。機材が多いことと、時間的な制約が一番邪魔なため、頼もしいランクル(トヨタ・ランドクルーザー)を足と宿にして全行程1,340キロ、五泊六日の旅になった。
 二ヶ所の撮影ポイントと最終目的地が瀬戸内の真鍋島であること以外、コースも時間もすべて太陽の位置と気分しだい。観光客や住民が宿や家に帰った後、まだ夕陽の位置に拘って、ひたすら待ち続けられるのも、早めにビールを呑んで寝ちゃったり、夜半に目がさめてそのまま少し走り出せるのも、宿を利用していないからこそ。
 今回、道の駅や高速道路の進化にびっくりしたが、一番驚いたのは真鍋島。ここはあの『瀬戸内少年野球団』などのロケ地になっている所だから、てっきりカーフェリーでロケ隊が渡っていると思ったのに、事前の問い合わせに「ないけど六千円くらいでチャーターすればOK」と返事。迷ったが「もったいない」と、車は岡山に置いて、荷物をリュックとキャリーにまとめ、住民の足のようなフェリーでいざ島へ。と、降り立った私たちは一瞬佇み、同時に大声で笑った。なんと船着場前の百メートルほどのエリア以外、猫が遊ぶ細い坂道が曲がり曲がり通っているだけ。
 「チャーターしてランクルで降りてたら、地元NHKあたりがとんで来たかもね」。それでも何台かのバイクと軽トラを見かけたので、島に一件だけの食堂で、おじさんにタコ飯とそうめんを作ってもらいながら「この島の車の車検はどおすんの?」と訊いたら、足元の猫に話すような口調で、「ナンバーなんか、付いてへんでぇ」(!)改めて見るとたしかに。
 これって他言無用かなと思ったけど、島に交番あったんだから・・・いいよね。

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(2008/11/29(Fri) 13:17:23)

こんにちは捨て犬です 青森県 濱山 哲也

「たかね」の皆さんこんにちは。鰹さんからの依頼でミニエッセーを、と。でも折角の機会でもあるし、僕も「たかね」の仲間と自負している以上、自己紹介をしておくのが仁義ではないかと初回(次回の依頼はないが)はご挨拶とさせていただきます。
 川柳(文芸)を始めてようやく2年が経った(「文芸」としたのは、それまでは気が向けば投稿川柳や時事川柳などに出して楽しんでいた。それまで文芸川柳に題詠があると知らなかった)。ペンネームは“捨て犬”だった。ある日、弘前の紀伊国屋書店で“青空もうひとつ”という川柳とエッセーの本を見た。霜石コンフィデンシャルを書いている高瀬霜石師(あえて師とする)の本だ。霜石さんの句は地元の新聞で目にしたことがあり、心に残るものばかりだったのですぐに買った。本の最後に住所があったので『どれちょっと行ってみっか』とその足で霜石邸へ。これが運悪く居たのだ(普段、土日は映画とか遊び回っているので居ない)。「さあ上がれ」元来話の上手い人なのでついつい引き込まれてしまう。「よし、君も弘前川柳社に来い」僕の中で『やばい』という3文字がけたたましく鳴る。このままじゃ“押さえ込み一本”を取られる。ときは6月だったので「これから夏だし、我が家は商売だから忙しい。秋になってから・・」とその場は“技あり”だけで済んだ。しかし、話術に加え筆まめなのが霜石さんの悪魔たる所以。川柳の資料を送ってくれたり、とうとう“合わせ技一本”負けである。9月、霜石さんに連れられ弘前川柳社へ。
「こんばんは捨て犬です」と名乗ったものだからさあ大変。『霜石はこの犬にお手も教えてないのか』という雰囲気。個々に挨拶するたびに「ふざけてる」との指摘。霜石さんが「哲也って柳号は無いから哲也でいいんでねが」で落着(おそらくこいつは長続きしそうもないから柳号を考えるだけ無駄だと思ったに違いない)。そして、けたたましい日々はすぐに始まった。「ところで明後日は川柳忌黒石大会だから出るように」と『明後日・・大会・・?』ことの重大性を分からぬ僕は、黒石は大好きな渓流釣りのメッカ。「じゃ句を出したら釣りに行ってもいいですか?」そのときの僕にすれば当然、聞かれた方は憮然「そんな時間無いと思うけど」って疑いの眼差し。それ以来、川柳に釣られてしまった。という次第。
 
昭和三十六年生まれ、家族は、母、妻、息子。
趣味は、渓流釣り(地元は海だが海はやらない)、映画鑑賞・音楽鑑賞・ドライブ。
ペットは、岩魚一匹(釣ってきた)。
好きな川柳作家、新家完司・徳永政二・高瀬霜石・・などなど。
どうか今後もよろしくお願いします。

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(2008/10/07(Mon) 14:04:32)

野田気質 千葉県野田市 成島 静枝


 神奈川は足柄に住む友達から電話が掛かってきた。元勤務先の同僚で結婚後移り住んでいる。内容は地域でボランティア活動をしている会の旅行で野田のキッコーマン工場を見学に行く事になった。ついては昼食場所を探して欲しいという依頼だった。多分福祉協で市のバスを利用して来るのかも知れない。実際私達も同じような事をやっている。条件は@二十五人の団体でバスA見学は13時から予定B清水公園も有名(桜の百選)行ってみたいC帰りに浅草に寄りたいDパンフレット送って等々。早速リサーチ開始!キッコーマン見学コース「ものしり館」は我が家のすぐ近くにある。春秋の遠足シーズンには小学生の山が出来、少人数で見学できるので一般の人も良く来ている。しかし周辺は工場と倉庫なので昼食場所がない。まず清水公園のレストランに問い合わせてみた。人数分の席は用意可、お弁当は希望価格で作れるとのこと。街中の食事処はネットで検索、ついでに「ものしり館」を見ると、仕出し弁当の注文が出来、施設内で食べられるとある。これは知らなかった一番早いじゃん!調べた結果を3つの案にまとめて資料と地図、来る日が決まったら逢いにいくとコメントを入れ送った。訪ねてくれるのは嬉しい限り、楽しみが出来た。
 私は嫁いできた頃、この古い街が嫌いだった。高層ビルもなく駅を降りると醤油臭かった。典型的な企業城下町で、第1〜7工場が建ち並び、その周辺に職人町、近隣では一番栄えていた。醤油の歴史は江戸時代に遡る。キッコーマンは大正6年野田醤油(株)として出発し、商標は「亀甲萬」。昭和2年にキッコーマンと社名を変更している。義理人情に厚く、昔気質の仕来りが色濃く残り、しっかり守る姑がいた。なかなか馴染めない私はこれが苦手だった。いまも歴史のある建物や施設、レンガ塀と旧家が市内に点在、江戸川べりに宮内庁御用達の醤油を造る御用蔵(ミニお城)がある。
 こんな街に住んで四十年、住めば都になってきてしまった。今では都会にはない特徴のある景色がむしろ好きになっている。工場の原料サイロ、煙突、出入りする車、大欅の並木等々、機械化が進み匂いもあまり感じない(嗅覚も住み慣れたか)近年この古きを訪ねる人が増え「街ガイドボランティア」を頼んで散策している。カメラ片手に歩いている人も少なくない。小さいながら美術館ができ、梅原画伯の一点物もある。近隣の街に新交通網が出来、急激に発展していくなか旧態依然のこの街、これはこれでいいのかなと思うが商店街や市役所は「街の活性化」に躍起になっている。昔気質の姑が亡くなり、気がつくと娘に「古いねえ」と言われる自分が居た。思考回路もこの街にどっぷり漬かり、姑と同じ古くさい事を平気で言っている私に、根っこが生えたのかも知れない。



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(2008/09/29(Sun) 13:12:48)

「ふるさと人物風土記」   柳沢 平四朗 


「冬枯れの中に家居や村一つ」遠州は生家袋井駅の一隅には俳聖、正岡子規の句碑がある。昭和三十二年地元のクラブの人達によって建立されたと言う。一世紀前この年に開通した東海道線で郷里松山への帰途、袋井を通りかかった際の即興句で名句の一つであると聞く。吹きすさぶ空っ風の鳴る、乾いた田舎の風情を車窓に画いたのであろう。
此の生家を後にして五十年余り、時折尋ねる町並に隔世の威を強くする。現在では周囲の町村を合併して人口も膨らみ、区画整理も進んで理工科大学やエコパの存在が中核都市への変貌を誇っている。
 俳聖の詠んだ此の薄ら寒い故里でも、スポーツ界へ官政界への出色の有名人が多いから驚きである。而も生家の界隈だから尚更である。
 今、サッカー王国と呼ばれる郷土もかつては野球王国と言われた時代が有った。
先日静岡新聞社発行の「しずおかプロ野球人物誌」を見た。昭和十一年にプロが日本へ発足した。五球団の一リーグで七十年も昔の事である。
こんな小さな空っ風の町から日本のプロ野球選手が活躍していたなんて自慢せずにはいられない。セネタースの掛井さん、ロビンズの天野さんである。また慶応大学の強打者外野手で鳴らした根津さんも、あの学徒出陣で巨人軍のユニフォームを幻にしてしまった。
 此の人達より十年も若い池田和(やわら)さんは、袋井商校で投打にも勝る選手で、大学への将来を期待されていたのに、いきなりプロ球団のテスト生で転々、球界のジプシーと渾名された。大成しなかった池田選手に周囲の人達は力を落した。
 生家の両隣には旧制中学時代に名を馳せた二人の選手がいた。掛中(現掛西)の名ショート村松国夫さんは卒業後、都市対抗の藤倉電線で活躍、水泳のオリンピック候補で期待された笹原文太郎さんは其の後満鉄へ就職したが残念ながら戦死した。
 島田商業の黄金期、名捕手で人気者の松下嘉一さん、弟の茂さんは投手で兄弟バッテリーを組んでいたが甲子園の二回戦で惜敗した。
 その翌年、和歌山の海草中学との決勝戦は今なお忘れられぬ興奮の町になった。皆、隣近所の顔見知りだから鼻高々である。
 官界政界でも傑出した人物像で輝いていた。文献に依ると戦前、母校の西小の隣に陸軍中将柴山重市閣下、官内大臣枢密院議長一木喜徳郎氏、弟さんである岡田良平氏は文部大臣、警視総監の小栗隆平氏の方々は皆々袋井市出身であるから驚きである。満鉄から政界への転出した足立篤郎氏は農水大臣を務め、現在活躍中の代議士柳沢伯夫、イギリスはロンドンの在外公館公使を五年間勤めた柳沢逸司は私の身内である。
 静岡人は進取の気象に乏しいと言われるがそんな事はない。サッカーでもエコパを擁うして将来日本代表になり得る卵が二つ三つ育っていると聞く。
 俳聖が行脚した空っ風の鳴る故里の面影はない。近代的小都市としての躍進に大いなる喝采を惜しまない。
昔日を疎遠の里が温かい 平四朗
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(2008/06/26(Wed) 09:25:03)

川柳は大衆文芸なり   島田市    川路 泰山

川柳は大衆文芸であり、人間の詩である。たかね三月号、鰹主幹の言は当然で私も同じ考えを持っている。
もっともサラリーマン川柳や商業川柳は大半が時事吟であり、その分野だけでの優劣の付け方であって、詩性派、現代派、革新、前衛、伝統派にしても然り、『一握りの中での争い』で、これ等全てを集めたのが川柳である。だからその分野だけでの選句ならそれでよい、巷の句会なども地域性があって良いと思う。但し、これが県大会、地方大会、全国大会となると別で選者の優劣を問われるのは当然であり、川柳各分野を掌握した者が選ばれるべきだが、それだけの選者が少ないのが現状だ。
日川協が平成四年に法人立ち上げ当時、選者の教育を叫ばれたが、誰がどう教育するかも問題であるのと、選者が居たとしても北海道から沖縄までの広範囲を選者の移動費・宿泊費をどの様にするか、日川協自体に資金力がなく、当時は選者謝礼も一万円が限度の状態で、昔は名誉職で選者の方が祝儀を包む江戸時代の名残りそのまま、理事会で廃止を訴えて選者謝礼もやっと二万円にまで引き上げたが大半の費用は選者負担だ。これでは無理に遠い所の選者を依頼出来ない。
それと、受け持つ地域で地元の選者をとの要望もあり、あれやこれやで自然に選者の質も低下したのが現状である。
現在、日川協加盟の県川柳協会や吟社を見ても会員の減少と若い人たちが少なくなったのが現実である。それに若い人たちは古臭の漂う吟社や協会に入会しなくても、フリーでサラ川、新聞、マスコミ、川マガ等で自由に川柳を楽しめる様になり、川柳の流れも時代と共に変わりつつある。
大会の選者や指導的立場の方々も、肩書き欲しさだけでは困る。その立場に応じた勉強をオールマイティーに努力する必要がある。
 私自身、勉強不足を痛切に感じながら改めて一からの出直しを決意しながら認めている。
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(2008/05/26(Sun) 09:25:03)

川柳文学コロキュウム大会  岡崎市  真理 猫子

川柳の大会に参加したのは三回目。
川柳大会ってどんなものだろうと一人で参加した「バックストローク大会」、一昨年長泉町で開催された「静岡県川柳大会」、そして今回大阪で開催された「川柳文学コロキュウム5周年記念大会」。それぞれ雰囲気も進行も違って、それはそれで楽しめた。
川柳コロキュウム5周年記念大会は、参加者252名中、面識のある人はたったの7名。そんな中でも、会場のどこからか聞こえる呼名に、
「あっ、この人は川柳誌で見た事のある雅号だ」
「あっ、この人はインターネットの掲示板でお話ししたことがある」
と、生の声を聞けただけで感動してしまった。

川柳に関わってから何年もかかってようやく気づいた事がある。どんなに詳しい自己紹介よりも、そのひとがパッとわかる十七文字。
詠まれる内容が現実であれ、妄想であれ、その人の中に確実に存在するものだから。
そのものをどう観ているかという方向が近いものにしか反応は出来ないのだが。
そんな事を感じながら披講を聞いていた、楽しい大会だった。

翌日は、赤松ますみさん、西恵美子さん、太田虚舟さん、あらいじゅんこさんと、中前棋人さん、水品団石さん、望月弘さん、加藤鰹さん、でジャンジャン横丁と通天閣めぐり。猫舌の弘さんが、できたてのたこ焼きで口の中に大やけどをしちゃったり、話が弾んでいた姫たち(仮名)が電車を乗り越しそうになるハプニングもあったりして。
食べてしゃべって、しゃべって食べて、初対面なのに挨拶もせずに二日間一緒に遊んでくださった方に、初めて会ったような気がしないといわれるのもなんだか嬉しい。
未だ頭の中はお祭り騒ぎである。
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(2008/04/26(Fri) 09:25:03)

これが川柳・これも川柳      加 藤  鰹

先日、本年度のサラリーマン川柳ベスト100が発表になった。この中から一般投票を三月十四日まで受付け、五月中にベスト10を決める仕組みである。
今回の応募総数は二万二千句余り、ピーク時の六万句強から比べれば三分の一と、かなりブームが下火になった感があるが、それでも伝統川柳界にこれだけの応募数を集める誌上大会は現在皆無であるのだから注目すべき公募である事に間違いはない。
厳選の予選を勝ち抜いた100句を見てみると半分以上の句が新鮮味に欠けていたり、単なる駄洒落に終わっていて読む価値が無いものだが、中には「おっ」と思えるような句もあった。
・へそくりを内部告発する息子
・安い値のガソリン探し遠出する
・貼り替えは昔障子で今日付け
・新鮮と買って十日も冷蔵庫
・千の風聞いてる妻はハリケーン
などなど。時事的な内容や流行り言葉を巧みに詠んでいて「ウマイな〜」と素直に思う。

二月七日、山梨市で開催された玉島よ志子氏の川柳講座を受ける機会があり、氏はサラ川についてこんな見解を喋っていた。
「これが川柳と思われるのは不本意だけど、これも川柳の一傾向です」。なるほど。納得。
『あんなものは川柳じゃない』と目の仇にして
いる川柳人が多い中で、懐の広い意見であった。

 とかく川柳人は自分のやっている川柳の傾向以外を十把一絡げに否定する。しかし川柳に「伝統」「詩性」「時事」「サラ川」等等、様々な傾向があり、それぞれ愛好家がいるのだから、同じ川柳の仲間同士で否定し合うのはつまらない事だと思う。要は自分自身を高め、どんな傾向からも認められる「いい句」を作ればいいのである。

 サラ川については「ふざけたペンネーム」が伝統川柳人に嫌われる一要因でもあったりする。「ぐうたらママ」だの「弱気な亭主」だのといった具合に“句を補足説明してしまっているネーム”も少なくない。しかし、これは主催者側に問題がある。先日投句を締め切った「オリックスマネー川柳」の投稿フォームには“ペンネームは句に準じて付けるのが一般的です”と明記してあるではないか。これでは一般参加者がそういったネームを付けて当たり前である。
 サラリーマン川柳は日本の川柳界の大御所、尾藤三柳氏、オリックスマネー川柳はその息子さんの一泉氏が選句を担当している、この辺はぜひとも今後、主催者側にアドバイスして頂きたいものである。

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(2008/03/26(Tue) 09:25:03)

「 二匹と二人 」 望月  弘

 世の中高齢化が進んでいる。
 二匹と二人の我が家も典型的な老々家族だ。二人はさて置き、犬の「ホクト」は十二年と七ヶ月、猫の「コロン」は十一年と四ヶ月だ。人間の年齢だと八十歳を過ぎた頃だろう。
 私が物心ついた頃から、犬と猫はいつも家族の中にいて一緒に暮らしてきた。
 以前飼っていた犬は、息子が小さい頃から飼い始めて十九年程生きた。最期の一〜二年は足腰も弱り、歩くのもよろよろの状態だった。猫もある頃から姿を消し、犬も死んでからもう動物を飼うのはやめようと思った。
そんな時、妹の家で仔犬が産まれ、同じ年に子供(孫)も生まれることになった。妹から、迷信だと思うが同い年だとどちらかが負けると言い伝えがあるので、飼ってほしいと頼まれて飼うことになった。
 柴犬の雑種だったが、近所の人達や子供達にもかわいがられて、やさしい性格に育った。遠くで子供らの声がすると耳をそば立てている。知らない人でも尻尾を振るほどの人好きで、番犬にはなっていない。今は時たま溜息をついたりして寝てばかりいる。
 犬が一才を過ぎた頃、勤務先の駐車場脇に捨てられていた猫を娘が拾ってきた。数匹の中からいちばん弱そうで可哀相なのを拾って来たという。目脂で目が塞がっている状態で、やせこけていて育つのは無理だと思った。

0712-hiroshi.jpg しかし、スポイトで牛乳を飲ませたり、温かくして面倒を見たおかげで、ようやく歩けるようになった。よくよろけてばかりいるので「コロン」と名付けた。ようやく大きくなり外出するようになったので、半年位の時に不妊手術を施した。それからは余り遠出はしなくなった。
 性格は犬と正反対で人間嫌いに育った。捨てられたことを本能的に察知しているのかと思えるほどだ。遠くで子供らの声がしただけでもその場から逃げてしまう。家族と一緒にいても、来客があるとさっと逃げてしまう。
 でも淋しがりやでもある。家にいる時は私のそばでいつも眠っている。そっと席を外してもすぐついて来る。
 今は、足の衰えを遅らせるべく、犬と朝夕の散歩を続けているが、どちらが先に音を上げるのだろうかと思っている。当分は二匹と二人で癒し合い、助け合って生きている。

飼い主に似た溜息を犬がする    弘  

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(2008/03/08(Sat) 09:53:46)

浜 さ の こ と   浜 松 市 寺 脇 龍 狂

「老人クラブへ入れやい」六十歳になったばかりで、まだ製材所に勤めていた私に浜さが顔を見るたびにそう言いました。「まだ仕事をしているので」其のうち入れてもらうよと体よく断っていたが再三再四の勧めで、つい断りきれなくなって勤めながら町の老人クラブの仲間にして貰いました。昭和三十八年天竜市の山の中から中瀬へ出て来た私はある日笠井街道で一人の老人を見かけました。丸顔で少し色は黒いが見るからに人のよさそうなおぢいさでした。何だどこかで見たような顔だがすぐには思い出せずこの人が昔生まれ故郷の村へ「竹箕」を売りに来た「浜さ」だと分かるまでに半年もかかりました。
終戦後浜さは毎年春になると「竹箕」を担いで私の村へ行商に来ました、人のよさそうな童顔で悪強いするでなく村の人も重宝して何となく当てにして待っていました。決まって私の家で弁当を使ったのです。母が小商いをしていたので行商の人が皆昼飯を食べました。
やがて私も仕事を辞めて今度は正式に老人クラブへ入会し町のお年寄りとお付き合いすることになりました。そうして又浜さに勧められてゲートボールの仲間になりました。
既に米寿に達していた浜さはまだ元気でゲートをしている時が一番楽しそうで、毎日親切に教えてくれました。年は取っても浜さはいつもニコニコしながらゲート場の草を取ったり腰掛けを直したり色々やってくれました。そんな浜さも年には勝てず動作も鈍くなりました。家族からゲートボールをやめるように言われたのは其の頃です。
唯一の楽しみを奪われた浜さはすっかり悄気て元気がなくなりました。皆「気の毒に。もっとやらせりゃいいだに」と話しましたが、ゲートをするにはコートまで行かなければ出来ません。家の人は往来の事故を心配したのです。ムリもない話です。目標のなくなった浜さは家にこもり滅多に外出しなくなり、其のうちとうとう寝込んでしまいました。そのころ会長だった私が時々覗きに行っても最初の頃は対応できたが、段々話も出来なくなり、半年ほど一人娘に手厚く看取られて帰らぬ旅路につきました。
若い頃山の方へ商売に行っていた浜さは私より村の事情に詳しく、近所の「おひろ」ばあさの若い頃の艶話までよく知っていて私はびっくりしました。
浜さが終の日となった離れはまだそのまま残っています。世俗を超越し、威張らず逆らわず愚痴もこぼさず、いつもニコニコ好々爺の見本のようだった浜さが前を通ると「寄ってけやい」と呼んでいるような気がします。
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(2008/02/26(Mon) 09:25:03)

「 子守唄 雑感 」  高瀬 輝男

老齢化、少子化の騒ぎは今後当分の間騒がれるだろうし、双方とも現代社会の産物とも言えるだろう。
老齢化はともかく、少子化問題は一日も早く解決したい問題だが、女性の権利などがあって一寸解決は難しいだろう。
少子化が進むと共に必然的に忘れられてしまうものに「子守唄」がある。
かつてはこの子守唄で母に背負わされ、安心して深い眠りについたものである。
子守唄というと大体何処の地域でも
 ねんねんのころりねんねしな
 坊やは良い子だねんねしな
と、いった文句が多かれ少なかれ入っていたものである。
しかし、地方のよってはその土地の貧困などによって悲惨というか、絶望的というか、これが子守唄か?と思われるものも大分あった事は否めない。
その代表的なもの(地元の方達には申し訳ないが)として「五木の子守唄」がある。見方によっては、これは「子守唄」ではなく「民謡」だという見方もあるが、いずれにしても恵まれないその土地に生きてゆかねばならない宿命といったものを感じるのは私一人だけではないと思う。
“花はなんの花つんつん椿
 水は天からもらい水”
を中心にした「五木の子守唄」は五木の女性たちの捨て鉢的な絶望感、そして愚直なまでに自分を愛し、命を賭け
た究極の世界ではなかったかと察しられる。

また、この「五木の子守唄」と似かよった子守唄に「米良の子守唄」がある。 
 “ねんねんころりよおころりよ
   ねんねしないと背負わんぞ
   ねんねしないと川流す
   ねんねしないと墓立てる”
貧しい土地柄、常に“死”というものと背中合わせに生きてゆかねばならない庶民の不安と絶望感で満たされていると言っても過言ではないだろう。貧乏の苦しさとはいえ、その文句に「殺意」さえ感じ、うすら寒くなってくる。
大体においてこのような子守唄には似合わない―といった文言の入っているのは、その土地の貧しさ、生きて行くのが並大抵ではない地方である。
その故でもあろうが、考えようによっては、これ等は「子守唄」と言うよりもその土地に生きて行かねばならない宿命的な「恨み節」であり、一種投げやり的な「なぐさめの唄」であったのかも知れない。
貧困な土地、そしてろくな肥料もなく、わずかばかりの作物頼って生きて行かねばならなかった人達の“血の叫び”であったかも知れない。現代のように、何処へでも好きな土地へ移り住むことの出来なかった時代の“苦”の産物とも言えるだろう。
現代に生きる私たちは、これらの「子守唄」の時代に対し、余りにも恵まれ過ぎていないだろうか?
目前の「石油危機」をチャンスに考えを改めてみる必要があるのではなかろうか?
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(2008/01/26(Fri) 09:25:03)

 

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