静岡川柳たかねバックナンバー
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霜石コンフィデンシャル70   高瀬 霜石

「味 な 贈 り も の」

どんな本で読んだかは、もう忘れてしまったが、小学生の女の子が書いた作文でこんなのがあった。
 台所の隅にまだ使っていないまな板があったので、これはいつから使うのかと、彼女は母親に聞いた。母親は、その新しいまな板は、事情があって、今はまだ使えないと言う。それは、おばあちゃん(母の母)からの贈り物だという。その時は不思議に思ったけれど、あとで理由がわかった。
 がんの再発で入院することになり、もう家には戻れないことをさとったおばあちゃんが、娘(この作文ででの母)にまな板を渡して、こう言ったそうだ。
「もし、私が死んだら、みなは忙しいから、私のことなど思い出すこともないだろうけれど、でも、台所でまな板をトントン叩くと、きっと私のことを思い出してくれるんじゃないかしらねえ」
 母親は、その言葉を聞いて泣いてしまい、何も言えなかったそうだが、この作文の小学生の少女は、最後にこうまとめていた。
「人間は、人生の最後に自分の家族に何を残せばいいのだろうかとふと考えました」
 九月の初め、僕より二つ年上のMさんが、突然亡くなった。M先輩は博学多才で、世事に疎い僕に、世の中の仕組みをいろいろ教えてくれた先生でもあった。
 昔むかし、青年会議所(JC)に所属していた頃、「好きなラーメン屋」のアンケートをとったことがあった。飲んだ後の参考にしようとの下心もあった。
 M先輩の答に「薮きんの中華そば」とあったので、当時まだ青臭かった僕は、先輩に尋ねた。
「M先輩。《藪きん》は、オラもよく行きますがねえ。あそこは、一応、日本蕎麦屋ですよねえ」
「タガセ。まず、一回食ってみろ。話はそれからだ」
 以来、二十数年。週に最低一回は通っている《藪きん》である。もちろん中華そばばっかり注文しているわけではないが、中華そばのインパクトは強い。
 M先輩が亡くなったと知った次の日の昼、《藪きん》で中華そば食おうと思って、暖簾をくぐった瞬間、ふとこのことを思い出したのだ。
「おい、タガセ。俺はお前にいっぱいモノを教えてきたが、とどのつまり思い出すのは、中華そばだけかよ」と、天国であきれていることだろう。合掌。
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(2008/12/29(Sun) 14:45:33)

霜石コンフィデンシャル69   高瀬 霜石

「 耳 学 門 」

 オリンピック陸上男子のリレーは、銅メダル。でもあれは、速い奴がバトンを落としたせいのタナボタ。
 ちょっと前まで獣を追いかけていたジャマイカやケニアやエチオピアの人たちに、われわれ農耕民族が束になっても、ハケジョッコは勝てるわけがない。
 この人たちとわれわれとでは、足の長さも、バネの強さもまったく違うけれども、なんと、耳垢もタイプが違うんだってこと、知ってましたか?
 耳垢には、ドライとウエットの二つがあると、動物行動学研究者の竹内久美子が書いていた。
 ドライとウエット。日本人(モンゴロイド)には両方いるが、驚いたことに、白人(コーカソイド)と黒人(ニグロイド)には、ドライはいないのだそうだ。世界の耳垢型分布図に、こう載っている。数値は、ウエットタイプの割合。
○日本の本州の人       二〇%
○アイヌの人々        六〇%
○沖縄の人々         四〇%
○アメリカ白人     ほぼ一〇〇%
○アメリカ黒人    ずばり一〇〇%
 日本人は、先に住み着いた縄文人と、後から来た渡来人との混血で、その混ざり方が地方によって様々。アイヌの人たちは縄文の直系の子孫で、沖縄もその色が強いのだそうだ。
 人間の耳垢は、元々がウエット。ある日突然、アジアの草原あたりでドライが生まれ、それが広まったというのが定説。つまり、ドライは新参者なのだ。
 オラの亡夫が、小柄で、眉も髭も濃く、アイヌ風の顔つきをしていたので、かつては蝦夷(えみし)と呼ばれ大和朝廷に滅ぼされた人々と同じ「縄文の血」が、オラにもきっと流れていると、子供のころから信じていた。
 オラはときどき、同居人を《ヤマトンチュ》(沖縄の言葉で本土の人)と呼ぶ。意見の相違は、すなわち、人類の違いというわけである。
 「お前たちは、いわゆる侵略者。ところがどっこい、こっちは日本原住民の末裔なるぞ」と胸を張っていたのが、ある日突然、その誇りがガラガラと崩れた。オラの耳垢はドライなのだから、如何ともしがたい。
耳垢の奥に、こんなミステリーがあったとは……。
ところで、あなたは、ドライ? ウエット?
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(2008/11/29(Fri) 14:41:53)

霜石コンフィデンシャル68   高瀬 霜石

「キーホルダー」

僕の会社は、今年で創業六十年になる。一般に会社の平均寿命は、約三十年といわれている。今日までの長い不況のトンネルと、もの凄いスピードでの環境変化の激しさを加味すると、実際はもっと短くなっていると思うが、とにかく六十年はたいしたものなのだ。
僕は二代目。戦後間もなく、満州から引き上げてきた父と母が、その頃はまだ珍しかった自動車の部品を商った。当時は、自家用車は余程の金持ちじゃないと無理で、街を走っていたのは、バス、ハイヤー、タクシー、公用車、稀に大きい商店の宣伝用の車くらいだったという。
父が三十年、僕が三十年、会社は細胞分裂もせず、ずーっと一店舗。「小さくても元気」「少数精鋭」の心意気でやってきた。
僕が社長になってからは、給料は勿論、ボーナスも前年より下げたことがないのが自慢といえば自慢だろうか。但し、据え置きはありますよ。定着率がいいので、お客様からの信頼度も高く、今のところ歯車は順調だ。
数年前のある日のこと。十年選手の一人が突然辞めたいと言ってきた。去る者は追わず主義の僕だが、気立てのいい若者なので話をじっくり聞いた。
仕事に不満はないが、転身したいと言う。そういうことなら、気持ちよく送り出すしかなかった。それから約一年後、彼は自殺した。
「おたくを辞めてからは、どこへ勤めても長続きしなかった」と言う僕と同い年くらいのご両親の言葉に、僕は引き止めなかったことを後悔した。
 彼は、鍵がいっぱいのキーホルダーを、いつもこれみよがしにベルトにぶら下げていたのを、ふと思い出した。
 「バカヤロー。あんなに沢山あった鍵の束の中に、ひとつくらいお前の未来の扉を開ける鍵がなかったのかよ」と遺影に向かい、胃の腑で叫んでいた。

 キーホルダーじゃらじゃら軽いいのちかな 霜 石

 それから一年が過ぎた。ある新しい温泉ホテルの開館前のセレモニーに招待された。風呂、部屋、料理、接客サービスなどの意見を聞かせてくれというのだ。モニターだから、当然無料。大手を振って出かけた。
 大広間での懇親会で、偶然彼のお母さんと遭った。すぐに彼女は僕にお酒を注ぎに来た。友達が気晴らしにと誘ってくれたので、重い腰を上げたのだと言う。
 彼の思い出をぽつりぽつり語り合っているうちに、彼女は泣き出した。楽しいはずの宴会場で、中年男が中年女を泣かせているのはいい図ではない。こういう時は、つい優しい言葉をかけてしまうが、これが実はいけない。シクシクが、オイオイになってしまうからだ。子に先立たれた親の気持ちは誰にも判るはずがない。あれ以来、温泉に浸かると、彼女の大きな涙粒を思い出す。

 母さんの涙に勝てるわけがない      霜 石

霜石コンフィデンシャル | Link |
(2008/10/07(Mon) 13:38:23)

 

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