静岡川柳たかね 巻頭沈思考バックナンバー
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浜 さ の こ と   浜 松 市 寺 脇 龍 狂

「老人クラブへ入れやい」六十歳になったばかりで、まだ製材所に勤めていた私に浜さが顔を見るたびにそう言いました。「まだ仕事をしているので」其のうち入れてもらうよと体よく断っていたが再三再四の勧めで、つい断りきれなくなって勤めながら町の老人クラブの仲間にして貰いました。昭和三十八年天竜市の山の中から中瀬へ出て来た私はある日笠井街道で一人の老人を見かけました。丸顔で少し色は黒いが見るからに人のよさそうなおぢいさでした。何だどこかで見たような顔だがすぐには思い出せずこの人が昔生まれ故郷の村へ「竹箕」を売りに来た「浜さ」だと分かるまでに半年もかかりました。
終戦後浜さは毎年春になると「竹箕」を担いで私の村へ行商に来ました、人のよさそうな童顔で悪強いするでなく村の人も重宝して何となく当てにして待っていました。決まって私の家で弁当を使ったのです。母が小商いをしていたので行商の人が皆昼飯を食べました。
やがて私も仕事を辞めて今度は正式に老人クラブへ入会し町のお年寄りとお付き合いすることになりました。そうして又浜さに勧められてゲートボールの仲間になりました。
既に米寿に達していた浜さはまだ元気でゲートをしている時が一番楽しそうで、毎日親切に教えてくれました。年は取っても浜さはいつもニコニコしながらゲート場の草を取ったり腰掛けを直したり色々やってくれました。そんな浜さも年には勝てず動作も鈍くなりました。家族からゲートボールをやめるように言われたのは其の頃です。
唯一の楽しみを奪われた浜さはすっかり悄気て元気がなくなりました。皆「気の毒に。もっとやらせりゃいいだに」と話しましたが、ゲートをするにはコートまで行かなければ出来ません。家の人は往来の事故を心配したのです。ムリもない話です。目標のなくなった浜さは家にこもり滅多に外出しなくなり、其のうちとうとう寝込んでしまいました。そのころ会長だった私が時々覗きに行っても最初の頃は対応できたが、段々話も出来なくなり、半年ほど一人娘に手厚く看取られて帰らぬ旅路につきました。
若い頃山の方へ商売に行っていた浜さは私より村の事情に詳しく、近所の「おひろ」ばあさの若い頃の艶話までよく知っていて私はびっくりしました。
浜さが終の日となった離れはまだそのまま残っています。世俗を超越し、威張らず逆らわず愚痴もこぼさず、いつもニコニコ好々爺の見本のようだった浜さが前を通ると「寄ってけやい」と呼んでいるような気がします。
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(2008/02/26(Mon) 09:25:03)

「 子守唄 雑感 」  高瀬 輝男

老齢化、少子化の騒ぎは今後当分の間騒がれるだろうし、双方とも現代社会の産物とも言えるだろう。
老齢化はともかく、少子化問題は一日も早く解決したい問題だが、女性の権利などがあって一寸解決は難しいだろう。
少子化が進むと共に必然的に忘れられてしまうものに「子守唄」がある。
かつてはこの子守唄で母に背負わされ、安心して深い眠りについたものである。
子守唄というと大体何処の地域でも
 ねんねんのころりねんねしな
 坊やは良い子だねんねしな
と、いった文句が多かれ少なかれ入っていたものである。
しかし、地方のよってはその土地の貧困などによって悲惨というか、絶望的というか、これが子守唄か?と思われるものも大分あった事は否めない。
その代表的なもの(地元の方達には申し訳ないが)として「五木の子守唄」がある。見方によっては、これは「子守唄」ではなく「民謡」だという見方もあるが、いずれにしても恵まれないその土地に生きてゆかねばならない宿命といったものを感じるのは私一人だけではないと思う。
“花はなんの花つんつん椿
 水は天からもらい水”
を中心にした「五木の子守唄」は五木の女性たちの捨て鉢的な絶望感、そして愚直なまでに自分を愛し、命を賭け
た究極の世界ではなかったかと察しられる。

また、この「五木の子守唄」と似かよった子守唄に「米良の子守唄」がある。 
 “ねんねんころりよおころりよ
   ねんねしないと背負わんぞ
   ねんねしないと川流す
   ねんねしないと墓立てる”
貧しい土地柄、常に“死”というものと背中合わせに生きてゆかねばならない庶民の不安と絶望感で満たされていると言っても過言ではないだろう。貧乏の苦しさとはいえ、その文句に「殺意」さえ感じ、うすら寒くなってくる。
大体においてこのような子守唄には似合わない―といった文言の入っているのは、その土地の貧しさ、生きて行くのが並大抵ではない地方である。
その故でもあろうが、考えようによっては、これ等は「子守唄」と言うよりもその土地に生きて行かねばならない宿命的な「恨み節」であり、一種投げやり的な「なぐさめの唄」であったのかも知れない。
貧困な土地、そしてろくな肥料もなく、わずかばかりの作物頼って生きて行かねばならなかった人達の“血の叫び”であったかも知れない。現代のように、何処へでも好きな土地へ移り住むことの出来なかった時代の“苦”の産物とも言えるだろう。
現代に生きる私たちは、これらの「子守唄」の時代に対し、余りにも恵まれ過ぎていないだろうか?
目前の「石油危機」をチャンスに考えを改めてみる必要があるのではなかろうか?
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(2008/01/26(Fri) 09:25:03)

「父さん」のバカ(一)  柳沢 平四朗

先日、医療センターの山口総長が新聞のコラム欄で、医学から見た回想の効用に就いて深く考察されていた。『人はそれぞれ心というタイムマシンを宿らせ、忘れ難き追憶は孤独や虚しさを癒す良薬であり、思い出などに耽ると後向きの印象を与えるが、今を生きる大切な糧である』と結んでいた。読んでいるうちに大昔の事へペンが弾み出した。
母さんから聞いた父さんの若き実像である。底抜けのお人好しへ歯痒い連合いで有ったと言う。
農家の次男に生れた父は小学校を終えると町の酒問屋の親類、伊豆の醸造元へ杜氏になる修行で家を出た。一応の職人になるには十年掛るそうである。小僧としての日課は目に見えぬ雑用に酷使された、同年代の三人の中へ陰日向のない父さんは職人衆に可愛がられた。
五年近く経った頃、世話人だった酒問屋の息子の急病に呼び戻される羽目に父さんは相当悩んだそうだが、杜氏になる夢を捨てることになった。
今までの職人見習いとは違い経営者になる卵である。注文先へリヤカーで配達の毎日、くたくたに疲れた小柄の身を鞭うって町のソロバン塾である商道館へ通った。
先輩番頭からの扱きは厳しく虐めに近いものだった「商人とは最小のコストで最高の利益を上げよ」との真骨頂へ「損して得取れ」の父さんとは反りが合わず、心労も重なり体調もSOSを告げた。それでも何時かは独立する日を夢見て六ヶ年が矢の如く過ぎた。
此の頃、一人娘の母さんと縁談がまとまり父さんは独立を決意、開店の資金繰りへ奔走していた。借金の見通しがどうにか着きそうな弾みも、好条件の店舗借りの話が壊れてしまった。当時酒の小売り業者の間隔は五百米以上でないと許可されぬ最初の躓きである。次に探し当てた場所は営業許可ギリギリで将来不安も有ったので、醤油、味噌の販売品を増やし開店の準備に大童である。
結婚と開店の喜びに父さんは少々舞上っていたと思う。開店は秋祭りの吉日を選び氏神様に陶器の一斗詰めを奉納し、折込みチラシも大量にチンドン屋まで雇い宣伝を委託した。余りの派手ばでしさに新婚早々でもけんかが絶えなかったという。暫く営業しているうちに税務署から酒類の販売は居酒屋のみ、外商は罷りならぬのお達しである。
ある日、父さんより三つ四つ年上の男が居酒屋の客で来た。話がとても上手な人で忽ち意気投合、次の来店を心待ちする父さんにさせ三度目当りから身の上話をする座敷の客になる。小声で話込む男二人を母さんは訝った。
聞けば其の人は千葉県の銚子生れで、名立たる醤油問屋の長男とのこと、道楽が過ぎて弟に家督を奪われ今は放浪の身の職探しだと言う。父さんに熱弁で勧めているのは客が一升買うと、もう一升おまけを付けるいわゆる倍枡醤油だと言う。仕入れは其の筋で詳しいから旗上げを決断せよと迫るが、母さんは見ず知らずの人の調子のいい話は眉唾物だと信じない・・・つづく 
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(2007/11/26(Sun) 09:25:03)

「 駒 下 駄 カ ラ コ ロ 」 寺 脇 龍 狂

夏場は素足に下駄を履く。
桐の木の軟らかい感触と黒い鼻緒(綿かビロードがよく知らないが)の肌触りがとても心地良いからだ。今時下駄など履いている人は滅多になく、皆珍しがる。
昭和六年、町へ小僧奉公に出た。親方夫婦が超ジミな人達で兄弟子も三人いたが、酒タバコは勿論のこと長髪はダメ、休みの日でも履物は所謂「日より下駄」で雨降り用の下駄の足が少し低い物だった。カラカラの上天気でもこれを履いて町へ遊びに行った。駒下駄なぞ生意気の一言で、見ることも許されなかった。
近所の若い衆がカラコロ履く駒下駄がとても羨ましかったが、置かれた立場上仕方のないことで、早く大人になって履いて歩きたいと毎日思った。貰った小遣いで買ったらよさそうなものだが、封建時代の事ゆえそんな訳にはいかない。
 長屋に下駄の「歯いれ屋」があり、嘘のようだがこういう下駄の歯を修理する職人がいて町の人達には重宝した。
これで商売になったのだから何とものんきな時代だった。
また町内に「鼻緒屋」という店があって、下駄や草履の鼻緒を作ったりすげてあげたり結構繁盛していたようだ。
長い戦争の揚げ句の敗戦で世の中は一変。戦前の情緒豊かな社会はどこかへ吹っ飛んで物も心もアメリカ流にならされて男の履物はズック靴に変わっていった。
復員時に大事に持って帰ったズック靴は勿体なくて中々下ろせなかった。戦前、物はあってもお金のない時代に育ち戦後は物も金もない荒れた土地へ放り出され、無茶苦茶働いて経済大国と言われる程の世の中となり一応不自由のない暮らしとなったが、その代償はあまりにも大きく毎日のように起こる殺人事件、交通事故、果てはその日の食べ物まで毒か薬か分からないような殺伐な世の中になってしまった。
一世紀に近く生かされて、いま果たして幸せかどうか心は揺れる。駒下駄が履きたかった静で平和なあのころが無性になつかしい。

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(2007/10/26(Thu) 09:25:03)

川柳の協会や結社に危機  島田市 川路 泰山

現在の川柳界に大結社は別としても地方の協会や結社が解散もしくは寸前に追い込まれている所が各地区に見受けられる。十年程前に私が声をあげた事がある。七十才を過ぎた協会役員や結社主幹は若手に引き継ぐ準備を始めないと息詰まりが来るからと、自らも後任を推薦して引退したが実らなかった。
今、正にその危機が現状化してきた。危機に瀕してから人集めに躍起となっても遅い。川柳人口だけは異常な程増加はして居るのだが、協会や結社が見離されてしまった。
原因は指導者の高齢化と一家言持った好作家も減少したが、一つは近隣吟社や県外吟社との交流がなくなり、地元だけの句会で旧態依然とし、定型以外破調句や仮名文字の句は戴きませんでは若い人は近寄れない。
それに課題等も作句者を馬鹿にした様な低俗なものまであり、協会主脳や選者の常識まで疑われる。特に県大会ともなれば、県外から全国レベルの選者の数名は誘致しないと益々老朽化してしまう。 
それに協会、結社の外では、新聞や雑誌や商業宣伝から
サラリーマン川柳、川柳マガジン等に依る自由な投句発表が出来るので結社の必要を感じない。
この現状の中で協会や結社が生き残って行くのには、協会結社の主脳、選者にしてもそれ相当の勉学努力《伝統から前衛、革新、詩性と現代の川柳を一通りは掌握する》が必要となる。
それと句会の在り方にも問題がある。座興程度の句会が大半で、参加者も、今日は抜けたとか全没だったの会話だけで終始する事が多い。本来なら勉強の会であってほしい。一選者に対して一課題一句の投稿で、選者は入選落選の全句に句評を付ける。句会に参加せずに投句だけの場合は十日か半月前に締め切って選者に宅送する。当日発表。
この様にする事で投句者選者共に勉強になる。大会の場合は別である。大会は一つの祭りだ。
「ローマは一日にして成らず」



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(2007/10/22(Mon) 16:08:17)

GHQ   静岡市 中安 びん郎

私は昭和十七年の一月から海軍技術研究所に就職したが
十九年の終り頃、友達の吉田君が或る日「昨日アメリカの日本向け短波放送に“戦争はもう直ぐ終る、其の場合日本人二世の将校に占領政策を検討中”と言っているが本当だろうか?」と言った、そして翌年八月十五日に日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、海軍も解散したので私は帰省して戦死した兄の跡を継ぎ、農業をするようになった。
 その頃部落に私と同じ様に帰省した青年が大勢居たので青年団を作ることになり、私は副団長にさせられた。「処で会報を作ろうではないか」と提案したところ、みな賛成したので間もなく第一号が出来た。
 会報を読むと、いつも自転車の後ろにキャンデーの箱を載せ売り歩いている男が「私は空襲で家を焼かれ、兄も戦死した。アメリカが憎い。この仇は屹度討つ」と書いてあった。
 其れから幾月かしてGHQ(連合国最高司令官総司令部)から青年団へ『何月何日、当方へ代表が出頭せよ』との文章が来た。団長が鉄道員で行けないので私に行ってと頼まれたので引き受けることにした。
当日千代田区の濠端の元第一生命保険ビルを改装したGHQに行き、件の召喚状を受付に出した処事務所に案内された。見ると男女共稲荷寿司の様な帽子を斜めに被り、頭髪は黒く、昨年吉田君が言った様な日本人二世である。着席すると靴の爪先に金色の星マークを付けた女性士官がコーヒーを持参して「遠い所から御苦労様です」と日本語で言われたので初めてホッとしたのである。
 次に肩章に星が二つ付いている中尉らしき将校が現れ、青年団のキャンデー屋の文章を指して「こんな文章をこれからは書かないで下さい」と言って黙って去って行った。
 私はアメリカ人の寛大さと豊かさに敬服した。
 その頃横浜では戦時中捕虜を虐待した収容所の兵士の裁判処刑を行なっていた。
 昔中等学校でも無抵抗の下級生を苛めた事を思い出した。その点アメリカ人は捕虜を大事に扱う紳士的な習慣である。沖縄戦でも充分テレビで見た。
 そして静岡へ帰る汽車の中で、アメリカ軍はどうして静岡のイナカ町、曲金の青年団の会報を手に入れたのだろうかと思い、その諜報力の凄さに驚いたのである。
 

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(2007/08/06(Mon) 21:31:08)

銀 行 強 盗 事 件     静岡市  永田 延男

 この世の中は思いもよらぬ事が起きるものだ、私が支店長をしていた銀行に予期もしなかった銀行強盗の遭遇である。
 昭和四十六年三月一日午後三時少し過ぎ、所属支店の表玄関口のシャッターを下した直後犯人が通用口から進入した。刃渡り二十糎の柳刃包丁と発炎筒を発火させてカウンター越しに出納係から現金を鷲掴みにした。
 騒然とした店内は緊急ベルを押して非常体制に入った。男子職員は障害物を持って立ち向い逃げ道を塞いだ。女子職員は関係方面へ連絡をとり、新入社員が出口のドアに鍵をかけたのでかなりの時間を稼ぐ事が出来た。
 犯人は抵抗されている間にポケットに入れた札束をポトポト落し椅子で通用口の硝子を割って裏の小路伝いに逃げた。
 職員をはじめ民間の方々の協力もあって「銀行ドロボー」と叫びながら追いかけた。
 警察の威力は素晴らしいもので、パトカーは二分後に急行し、逃げる犯人を住宅の玄関に入ろうとする寸前に取抑え逮捕した。
 犯人が路上に落した現金は交番に届けられ、捕まった犯人の内ポケットにあった二万円と合わせて心配した現金は全額戻り、感謝に堪えなかった。

 協力して下さった皆様へのお礼もすませ、調査の終えた警察からは功績のあった職員と店舗に表彰状を賜った。
 振り返ればこの世は諍いが多すぎる。「悪の枢軸」とか、一方「大悪魔」とか、勝てば官軍、敗ければ賊軍と呼ばれる。平和だ治安だといくら叫んでも納まらない。人間とは有形無形を敵に廻して戦って生きていく動物なのだろうか。かつての日本も義勇奉公とか天皇陛下万歳でやってきた。竹槍で一対一なら日本は勝つと信じた教育だった。六十年経った今、憲法改正は将来を築く重大課題だ、長い間戦争反対を叫び靖国問題が批判をされても法の拡大解釈で不自由な選択の道を迷っている。
 現在我が国は八百三十二兆円の借金を抱えているので一人当り六百五十万円の大穴があいている計算だ。少子化の今後の国民の負担をどう考えているのか身近な解決策はない。金も票も欲しいのは解るが、天下りも談合も税金の無駄使いも無くならない。取り上げれば切りがなく嫌な暗いニュースが多くて頭が狂ってくる。
 真面目そうな顔をしたオジンがマイクの前で美辞麗句を並べ、専門用語を使って解らぬ事を喋っているが、腹の底は何を考えているのか。悪は亡び善が伸び伸び生きる住み良い世の中でありたい。
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(2007/06/26(Mon) 09:25:03)

  儚い出会いと別れ      静岡市  池田 茂瑠   

 おそらくもうお逢いする事もないだろう。如才ない女性だった。お名前だけは知っていたが何処のどんな方かは知らなかった。悪口と思えるような冗談も、何回か言ってしまったた。申し訳ございませんでした。校長先生さま。
 この一文を書こうとしたのは、この件が大きく影響していた。知り合いとしては男性より圧倒的に女性の方が多い。次々に現れては消えて行く女性達。極めて儚い縁ではあるけど、いろいろな女性と出会って来た。ある有名学院の奥さん、優雅な和服のモデルさんや書道家の娘さんに当る方、呉服屋の奥さんなどなど、こんな事もあった。髪の綺麗な娘さん、然し次に会ったら縮れている。ここまでは良かったが、その次に会ったらまた素直な髪に戻っている。あれ程縮ませた髪が真っ直ぐになるのかなと不思議に思っていたら双子だった。交互に会っていたのですっかり迷わされた。またある女性のこと、お姉さんは女優らしいという噂がとんでもない方向から耳に入ったので、そっとご本人に聞いてみたら、少し慌てて、お願いだから他の人には内緒にしてとのこと。少し前の事だからもう時効だろう。
 
 またこんな事もある。或る女性と知り合った。少ししてその方のお兄さんと一緒の職場で働くことになったが、彼と結婚したのが僕の女房のお姉さん。彼のお父さんとはよく選挙関係で行動を共にした方。彼の別の妹さんはうちの親戚へ嫁いできた。彼の母親の葬儀に参列すると、以前一緒に働いた女性が近くにいるので聞いてみると、彼のすぐ裏の親戚へ嫁いだとのこと。ややこしくてまるで笠置シズ子の買い物ブギだ。
 名字でも珍しい女性達にお会いしてきた。外側さん、机さん、先生(せんじょう)さん、一円さんは瀬戸内海沿岸にある姓。毛受(めんじょう)さん、牛ノ浜さん(ノが之の名字は知っていたが)、余湖さん(ヨコでなくヨゴと濁る)七夕さん等々。春は出会いの季節、希望に胸を膨らませたいけど、もう年齢的に萎んだまま。別れの季節でもあるけど、無理に絞ってももう涙も出ない。別離には寂しいけど慣れっこになりすぎている。
 こんな身にも小さいけれど会者定離の波は寄せている。どんな出会いと別れが待っているのか。

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(2007/05/26(Fri) 09:25:03)

柳俳の接点   静岡市 柳沢 平四朗   

年末になると新聞紙上に「文芸この一年」が、著名な評論家によって賑う。俳句、短歌、詩へおける本年の傾向と、新年への抱負が恒例となって活発な所見で埋められる。
 毎年の事ながら此の欄に「わが川柳」の「セ」の字も見当らないから癪だ。こんなに面白い五七五が文芸として失格なのか、そんなに取るに足りないものなのか、腑に落ちぬ些かを過日、新聞社へ問い掛けてみた。
 返事によると、それぞれのジャンルのリーダーの申込みに有るという。川柳は俳句に比べて軽く、安っぽいと思われている世間の風潮へ、責任者の感性も不必要としているのかも知れない。
 何れにしても川柳を若返らせたい思いで一ぱいだ。何時までも私等の様な老人の呆け防止では進歩はない。
 川柳界のホープ鰹君達のバイタリティーで地図の塗り替えが出来れば、現代短詩文芸へ胸を張れる時が来ると期待する。
 故人になられた県の大物俳人が活躍中、俳句の季語不要論を声高に聞き、これは革命的だなと思った。地方に依っては季語の無い口語俳句の盛んな所が有る。若い頃には度々参加したが、此のジャンルでは川柳の方が作り易く、調子の良い選り抜きへ満悦の句会であった。
而し、俳壇の大物曰く「川柳は空想のデッチ上げ」だと喝破する。此の道を飯の種にする御仁には中途半端な妥協
は無理であろう。
ひと昔も前の事だが、何処かの大きな川柳大会が有った折「俳句のような句が多く全部没にした」と言う有名な選者の話を聞いたことがある。最近は川柳と俳句の距離が近く、柳人が作れば川柳で俳人が作れば俳句だとの説が有るが、私には一寸異議がある。
 俳句のわびさび・季語・切れ字、川柳の穿ち・ユーモア・奇抜など混ざることの出来ない特徴があるように思える。
 川柳が始まって二百五十年、二番煎じ三番煎じでは新鮮味も無く魅力も無い。仲間の研究会でも、より詩的によりドラマチックに気負いばかりが先走っている。
 宇宙旅行が云々される時代、作者の意識改革が無ければ俳句との品格は広がるばかりだと思う。
 私は度々初心者の席から「同じ五七五で川柳と俳句はどう違う」のと聞かれ迷ってしまい、正解では無いかも知れぬ自分勝手な答えをする。俳句は建具やで川柳は指物やのようなもので、建具は寸法という枠(季語)の制約が有り、指物は細工物で(自由)だなんて知ったかぶりでお茶を濁している。
 このような随筆は諸先生の前へとても気が引けてしまう。川柳を愛して三十年。進歩の無いわが身への鞭にしたいと思う。了


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(2007/04/23(Mon) 14:16:53)

 柳  俳  の  接  点     静岡市  柳沢 平四朗 


 年末になると新聞紙上に「文芸この一年」が、著名な評論家によって賑う。俳句、短歌、詩へおける本年の傾向と、新年への抱負が恒例となって活発な所見で埋められる。
 毎年の事ながら此の欄に「わが川柳」の「セ」の字も見当らないから癪だ。こんなに面白い五七五が文芸として失格なのか、そんなに取るに足りないものなのか、腑に落ちぬ些かを過日、新聞社へ問い掛けてみた。
 返事によると、それぞれのジャンルのリーダーの申込みに有るという。川柳は俳句に比べて軽く、安っぽいと思われている世間の風潮へ、責任者の感性も不必要としているのかも知れない。
 何れにしても川柳を若返らせたい思いで一ぱいだ。何時までも私等の様な老人の呆け防止では進歩はない。
 川柳界のホープ鰹君達のバイタリティーで地図の塗り替えが出来れば、現代短詩文芸へ胸を張れる時が来ると期待する。
 故人になられた県の大物俳人が活躍中、俳句の季語不要論を声高に聞き、これは革命的だなと思った。地方に依っては季語の無い口語俳句の盛んな所が有る。若い頃には度々参加したが、此のジャンルでは川柳の方が作り易く、調子の良い選り抜きへ満悦の句会であった。
而し、俳壇の大物曰く「川柳は空想のデッチ上げ」だと喝破する。此の道を飯の種にする御仁には中途半端な妥協は無理であろう。
 ひと昔も前の事だが、何処かの大きな川柳大会が有った折「俳句のような句が多く全部没にした」と言う有名な選者の話を聞いたことがある。最近は川柳と俳句の距離が近く、柳人が作れば川柳で俳人が作れば俳句だとの説が有るが、私には一寸異議がある。
 俳句のわびさび・季語・切れ字、川柳の穿ち・ユーモア・奇抜など混ざることの出来ない特徴があるように思える。
 川柳が始まって二百五十年、二番煎じ三番煎じでは新鮮味も無く魅力も無い。仲間の研究会でも、より詩的によりドラマチックに気負いばかりが先走っている。
 宇宙旅行が云々される時代、作者の意識改革が無ければ俳句との品格は広がるばかりだと思う。
 私は度々初心者の席から「同じ五七五で川柳と俳句はどう違う」のと聞かれ迷ってしまい、正解では無いかも知れぬ自分勝手な答えをする。俳句は建具やで川柳は指物やのようなもので、建具は寸法という枠(季語)の制約が有り、指物は細工物で(自由)だなんて知ったかぶりでお茶を濁している。
 このような随筆は諸先生の前へとても気が引けてしまう。川柳を愛して三十年。進歩の無いわが身への鞭にしたいと思う。了
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(2007/03/26(Sun) 09:25:03)

一桁の昭和生まれが振り返る日本     川路 泰山

 激動の昭和、戦後も六十余年を過ぎて世界でもトップ級の経済大国とはなったが、反面大きな歪みも生じてしまった。一つには大家族制度の崩壊により、なげやりな家庭教育から生ずるモラルの低下、それによって起こるおびただしい数の事件犯罪である。
それというのも敗戦により国土の大半は焼土と化して衣食住を失った国民は生きる事さえ大変な時代を迎えて、一人一人が焼土にしがみついて立ち上がってきた。
その昭和一桁生まれの人達が自分の経てきた過去を子孫には踏ませまいと必死の努力をして、“自分は食わなくても子供には”の甘やかし。そして、急速な経済成長による豊富な物資と個人生活の安定、反面核家族化が進み、夫婦での共稼ぎによる家庭内での子供達の躾は自然と放置され、箸や茶碗の持ち方まで学校で教えるのが当然かの過った考えが横行、事件が起こると何もかも学校や社会の責任の様にして、親としての責任は何一つ頭にない恐ろしい時代となった。結果が子が
親を親が子を殺傷、他人に対しても同様に無差別な殺傷や物を奪ったりが日常茶飯事の様になってしまった。また、核家族化による老人の一人住まいも近所との付き合いもなく何時死んだかも知れない事件が多発しており、自分さえ良ければ他人様のことなど振り向きもせず、なるべくなら関わりのない方向へと回避する。一見平和な様に見える日本だが先が危ぶまれる。これも一部には昭和一桁生まれの責任のようにも思える。
私達の青少年時代には隣近所の大人達も互いに日常の面倒を見合ったものだが、今は余分な事の様に思われて話すら出来ぬ事柄が多い。昭和一桁も全員七十代となり、地域からも人生経験者と見られ、暇も作れるので、何とか話し合いの場や挨拶運動あたりから始めて、生活常識を再教育する時代ではなかろうかと思う。地域や行政でも、そんな機会を作ってもらえればお手伝いさせてもらえるのだが。


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(2007/02/26(Sun) 09:25:03)

愛犬「メリ」の回想(二) 静岡市     柳沢 平四朗

 昭和十一年頃だったと思う、名前は忘れたが物凄い大型の台風が遠州地方を襲った。街道を東西に流れる原野谷川は決壊し視界は湖と化した。刻々の増水は床上に迫っている。弟等を素早く安全な本家へ避難させた。先刻まで積上げた畳に蹲っていた「メリ」がいない。私は狂ったように名を呼んだ。土砂降りは一向に止まず、水はもう胸の辺りまで増えて来た。父さんは盥を用意し櫂はしゃもじである。「お前は早く本家へ行け「メリ」は俺が探して連れて行く」と怒鳴っている。
 早く見付かってほしい祈りで待った二十分間後、ぐしょ濡れの父さんと「メリ」が皆の前に現れた。安心とありがとうの感激で抱きしめ皆で泣いた。父さんの眼にも涙が光っている。それからの父さんは目を見張らせる愛犬家に変身して皆を驚かせた。
 此の頃から家業は、桑・唐辛子・菜種などの際物の商いに父さんは汗を流していた。中でも桑は蚕の繭ごもりの餌付けへ時間を争う商いである。養蚕家の注文は厳しく十五分遅れたらキャンセルになる商品である。
 目一杯詰めこんだ桑を一米立方のボーラ篭五個、リヤカーへ積み込む仕事は、父さんでも可成りの重労働らしい。こんな仕事に涙ぐましく引張り役で加勢してくれるのは三年目の「メリ」である。父さんからお礼に買って貰った
上等の首輪の雄姿は見るからに頼れる助っ人である。
 其の日は六キロ先の養蚕家から大量の注文が入った。でも先客の配達もあり時間的に無理で断るしかない。間に合えば後日に繋がる大養蚕家である。思案の末この注文を父さんは引受けたようだが問題は運搬である。
 いよいよ「メリ」の価値ある出番である。而し動こうとしない、何か元気がなく苦しそうでもある。約束の時間は迫り急遽、弟二人がリヤカーの後押しに頼まれた。母さんも私も小さい弟等の後姿に済まない祈りの手を合わせた。
 こんな大事な時に間を欠いた「メリ」へ父さんのご機嫌は頗る斜めである。
悄気返る「メリ」を皆で囲むと理由が判った。驚いた事に前足後足へダニが食いこんで腫上っている。これでは痛くて歩けなかったであろう、私は心の中で詫びた。暴れるので抱きかかえてダニを取った。其れからは日に日に元気を取戻し、リヤカーの傍で待機している「メリ」がいとおしかった。父さんの家業に欠かせぬ存在感へ可愛がった五年間余、天敵のジステンパーに罹り短い生涯を、家族の涙に包まれて昇天した。老いの脳裡に焼きついている「ありがとう・メリ」の回想記である。

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(2006/12/26(Mon) 09:25:03)

愛犬「メリ」の回想(一) 静岡市     柳沢 平四朗 

 NHKの土曜ドラマ「犬のディロン」を見ていたら、子供の頃飼った愛犬「メリ」の事が無性に思い出され、また懐古のペンを執ってしまった。
 小学三年の夏、突然の病気で障害児になった私に、親友の村木君から「仔犬が生まれたから一ヶ月位経ったらあげるよ」と嬉しい話があった。友達の真情がただ嬉しく後先の考えもなく下校の途中仔犬を見に寄った。まるで縫いぐるみのような固まりが五つ、親の乳房の争奪戦であった。中でも一番精悍な雄を約束して帰った。
 何となくウキウキして来る気持ちも、特に犬嫌いの父さんを思うと、此れからが苛まれて沈んでしまう。而し、いざの時には母さんが説得してくれる事も信じているし、餌も大きくなれば宿泊客の残りで充分である。
 ミカン箱に新聞紙を入れ物置の隅へ、仮住いを決めながら早々と見付からないように祈った。でも馴れないうちは鳴くかも知れぬと心配は尽きない。
 その明日下校して見ると箱の中に母さんが古毛布を敷いてくれて有った。私は嬉しくて泣いてしまった。弟達も待ち惚けの毎日である。
 「メリ」を飼って三ヶ月位経った頃、父さんの失職で本家から引っ越すことになった。幸に借家は百米位の先であったので「メリ」の為にも助かった。狭い借家であったので庭先で飼うより仕方がない。近所の大型犬に新参者の「メリ」は外に出れば虐められ、悔しい思いの毎日であった。他人にはつまらない犬でも私には大切なパートナーである。EQ \* jc2 \* "Font:MS 明朝" \* hps9 \o\ad(\s\up 8(けしか),嗾)けても他所の犬は怖い私が情けない。
 そんな或る日、父さんのバクダン宣言を聞いた。「先日用事で来た宝野の豪農の人が「メリ」を欲しがっていたので呉れることにした」と易易と言い放つ父さんが憎らしくて仕方がない。母さんも弟達もすっかり家族になった「メリ」を今更手放す事は嫌だと泣いている。
 それからの私は全く落ち着きを失い、学校にいても帰ったら姿のない想像へ勉強も手につかなかった。仕方なく明日から学校へ「メリ」を連れて行く決心をした。
 校庭のポプラに繋いで置くことにした。先ず、一日は何事もなく見知らぬ所で繋がれていても、おとなしかった事が不思議にさえ思ったのに、其の翌日とんでも無いことが起きてしまった。
 何かに怯えた「メリ」が、急に暴れ出し私の教室に入って来たから大変、忽ちパニックになった。先生から大目玉を食らい泣きたい心境である。
 こんな事になった以上、学校は厳禁で途方にくれてしまった。母さんが涙ながらに父さんを説得してくれ、ひと先ずこの心配から解放された。


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(2006/11/25(Fri) 22:21:57)

「 エンジョイ!蚊帳ライフ 」 加藤 鰹

 自慢じゃあないが、僕の小さな家にはエアコンが三台もある。リビングと二階の寝室と子供部屋。数年前一戸建てのマイホームを購入した際、静岡では有名な空調メーカー(菱○設備)の会長さんである妻のお父上がプレゼントしてくださったのだ。
 しかし!僕の妻は『エアコン嫌い女』。宝の持ちぐされとでもいうのか、夏でも冬でも使ったことがない。
 僕はエアコン大好き人間なのだが、残念ながら僕が寝ている部屋にはエアコンは設置されていない。夏は三十度以上、冬は0度近くまで冷え込む“とってもナチュラルな部屋”なのだ。
 先日、リビングの温度計を見たらなんと三十五度!『おい〜、クーラーあるんだから使おうぜ〜』と言ってみたのだが、『気のせい、気のせい、シャワーでも浴びておいで』と、まるでオシム監督のような厳しさである。

 そんな僕の夏の必須アイテムが『蚊帳(かや)』。ずっと蚊帳が欲しくてあちこち探し回った。大きなホームセンターや田舎の布団屋さんも訪ねてみたが置いていない。ネットオークションや骨董市には時々出品されるものの、たいがいボロボロで何だか気持ちが悪い。
 三年ほど前、そんなことを副会長の望月弘さんに話したら、「なんだ、蚊帳なら家に使っていないヤツがあるからあげるよ」と、さらりと言う。まさにヒョータンから駒。思いがけず憧れの蚊帳をゲットした。
 蚊帳を吊って、扇風機をかけて、蚊取り線香を焚けばもう快適な“秘密基地”である。BGMに好きな曲を流してごろ寝しながらウイスキーオンザロックをカラカラッと鳴らせば完璧。畳むのがちょっと面倒なので、翌朝出勤が早い時には吊れないが、週末には『蚊帳ライフ』をエンジョイしている。

それにしても今年は嬉しい夏だった。僕の母校であり、長女が現役三年生として通っている静岡県立静岡商業高校が三十二年振りに甲子園出場。第一回戦を勝ち抜き“波メロディ”がアルプススタンドに響き渡った。
 そして、たかね400号記念川柳誌上大会。昨年末から募集を始めたが、投句がなかなか集まらずに心配していた。しかし、蓋を開けてみれば全国から三百名を越す参加者があり、ホッと胸を撫で下ろした次第。
ご多忙の中選句に協力下さった先生方、長期に渡り大会広告を掲載してくださった新葉館出版ほか、全国の結社の皆さん、そしてご参加下さった皆さんに心より熱く御礼申し上げます。
たかね川柳会は五百号に向けて出航します。今後ともご指導、ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。
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(2006/09/25(Sun) 22:21:57)

「 裕 ち ゃ ん ・ 命 ! 」 静岡市   佐野 由利子


 平成十一年「石原裕次郎十三回忌法要」が行なわれた朝、私はひとり一番の新幹線に乗り、鶴見の総持寺に向かった。
 鶴見の駅前はものすごい混雑振りで、列の最後尾に並ぶのに寺とは反対の方向へ歩く事、小一時間。そこからノロノロ牛歩戦術並みの進み方で、何と朝八時から夕方五時過ぎまでずっと列の中にいた。それでもまだ総持寺には着かなかった。
 全国から二十万人もの人が詰め掛けたのだから無理ない事と諦め、その夜は宿泊し、翌日墓参りをして気を静めた。
 七回忌の時はもっとスムーズにお参りが出来たのに、俄かファンが“裕次郎ワイン”欲しさに詰め掛けたのだ。自転車の篭にワインを乗せ、帰る姿を恨めしく見送ったものである。
 昭和三十六年、スキーで骨折した裕ちゃんが山梨の下部温泉へ療養に来た。地元の高校生だった私は、千羽鶴を持ってお見舞いに行った。幸いにも娯楽室で卓球をしている所へ通して戴いた。会った瞬間、目の前がクラクラッとして、失神してしまいそうだった。身長一八二pのスラッとした長い足、世の中にこんなにも素敵なカッコいい男性がいるのかと唯々感激した。

「裕ちゃん、千羽鶴を折ってきました・・・」
「どうも有難う!」

あのスクリーンと同じ声で答えてくれた。あの時交わした言葉の数々は今でもはっきりと脳裡に焼き付いている。それから益々裕ちゃん熱は上昇し、四十数年たった今でも「裕ちゃん・命!」である。
 仕事の関係で裕ちゃんが所属していたテイチクの人とも親しく話が出来、グッズなども戴いた。小樽記念館には三回足を運び、CD40枚組セット・DVD・ウインドブレーカー・時計等沢山持っている(自慢)また裕ちゃんファンとは今でもHPなどで情報を交換している。
 裕ちゃんは、知性と庶民性を併せ持ち、いつもキラキラ輝いていた。わずか五十二歳という若さで短い生涯を下ろしてしまったが、あの甘く切ない低音の歌声と、カッコ良い姿は何時までも忘れない。
 それにしても、理想と現実の違いは虚しい!

 「裕ちゃんは理想 夫はトラさん似」 由利子
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(2006/08/09(Tue) 00:43:39)

「ああ、憧れの一戸建」  伊豆市   谷口 智美


 親の持ち家で育ち、結婚後は夫と二人、十九年間アパート暮らしを転々としていた私。家にコンプレックスを持つことなく育った私と、跡取りではない夫は、子供もなく、特別持ち家を夢見ることはなかった。けれど、部屋の部品がすべてアパートサイズのうえ、花ひとつ植えるにも、狭いベランダにある物干しと、エアコンの室外機と、小型の物置ボックスのすき間に場所を見出して、水をやるにも階下の様子を伺いながら世話する始末。土地も資金もないくせに、TVや雑誌で目にするたびに「中古の平屋の一戸建てとかいいよねぇ」と話していた。
 ところが昨年の十月、私がひとりで近所を散歩中にふと空家の立て札を見つけた。それがなんと、中古の平屋の一戸建て。即、立て札の番号に携帯で連絡をとり、後日夫も一緒に見に行ったときには私の心は決まっていた。棚ボタのように見つかった家への夢は、内装の改修がすむ入居日までの約一ヶ月でどんどん膨らんだ。
 が、いよいよ引越し真近になり、小物を運び込むときに、押し入れの奥に虫の巣を発見。慌てて大家にかけ込んで、すぐに処理をしてもらった。玄関に電球をつけようとしたら、とり付け口が割れていた。スペースだけになっていた洗面所には、家の中とは思えぬ、庭で長靴を洗うようなものがドンと設置してある。ウォッシュレット付という筈のトイレはフタをあげたら裏が割れていて通電しておらず、タンクの水はゴォーゴォーと、いつまでも止まらない。見れば見る所に驚いて大家を呼ぶものだから、私も疲れたが、大家も嫌になったことだろう。手伝いに来てくれている母と、姫路で留守番している父は、しばらく荷をほどかず様子をみろと言い出す始末。トイレのタンクの水が、真夜中廊下に流れ出し、川になった時は、夫と二人無言のまま、手あたり次第の布で水を吸いとり、バケツに絞り、私も不安になってきた。しかし、ここで泣き寝入りなんかするもんかと、逃げまわる大家をつかまえ、仲介業者にも交渉し、ひとつひとつクリアしていった。まだ未完成のところもあるし、これからむかえる初めての梅雨、夏、台風のことを考えるとひたすら恐ろしいが、とりあえず古さにも愛着がわき始め、なんだか私の家らしいなと思えるまでになった。むき出しの洗面台も百均グッズを使いまわし、次第にお気に入りのメイクルームになってきた。掘っても掘っても大きな石や異物がゴロゴロ出てくる庭も、草をむしり、少しずつ花を植え、気分だけはガーデニングを楽しんでいる。このところ少しおとなしいが、いつ何が起こるか気は抜けない。それでも夢の戸建の平屋のマイホームなのだ。

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(2006/07/09(Sat) 00:43:39)

慌てる乞食は貰いが少ない(後編)

浜松市   寺脇 龍狂

 昭和四十年頃製材会社に勤める身となり図らずも東京へ商売に行く仕事に携わるようになった。  
 最初は社長と同行して御得意先を一回りしてきたが、次からは当然一人、東京は終戦後一度だけ行ったきりで西も東も全く不案内。ある時、初めての店へ集金に行くことになった。神田神保町の材木問屋、向こうの係はいちど逢ったことのある人なので、この人を頼りに出張した。
 几帳面な社長がメモに子供でも分かるように克明に汽車、電車の乗り降りを書いてくれ、それと首っぴきで中央線の水道橋駅へおり、メモどおりに進行方向の左側へ出て十五分くらい歩いて無事目的の店へ到着。集金をすませ、今きた道を戻って今度は別の店へ向かった。このときはすんなり行けて何のこともなかったが問題は二回目、半年くらい経ってまたこの店に集金に行った。
 前回うまく行けたので今度は朝飯前とタカをくくって中央線へ乗った。水道橋駅へおりて半分成功したつもりで少し歩いたが、ちょっと変。半年前だから多少は前の記憶が町並みにあるはずなのに全然違う、途中日本大学があったが見当たらない。三菱銀行神田支店が角にあってそこを左折してじきに目当ての材木屋へ出たはずなのに銀行がない。アレ変だなと思いながら歩いたが丸っきり違う。コリャおかしい、気が付いて一度戻って水道橋駅から出直すことにした。駅に戻ってみたが駅に変わりはない。
 そんなバカな事はない、おれは気が狂ったのか、思案にくれてまた思いなおして歩いてみたがやっぱり違う。どういうことだ、万策つきて舗道へ座り込んで考えた。
前回どおり寸分たがわぬ道を歩いたのに全然違う。誰かに聞きたくても東京には間抜けな田舎っぺに付き合ってくれるヒマ仁はいない。泣きたい気持ちで座っていたら丁度そこへ人の良さそうな中年紳士が通りかかったので思い切ってこの人をつかまえて事情を話した。
思いがけない親切な人でしばらく考えていたが「あんた反対の出口へ出たんじゃないか」と言う。ハタと思いついた。東京の駅には両方の出口があるということを。
反対、反対、生き返った思いで紳士に礼もそこそこ水道橋駅へ引き返し、向こう側へ出て少し歩いたら、ある、ある!見覚えのある町並み、日本大学へ出た、心の中で先程の紳士に手を合わせながら、三菱銀行を左折して目的の店へ到着した。
なあんだ、他愛もない、基本通りに行動すればなんでもないのについなめて横着したばかりに三年も寿命を縮めてしまった、まあ別に損した訳でもないが、田舎者丸出しのいい恥さらし、人に話せる事ではない。向こうの店ではなに食わぬ顔で集金もそこそこに辞去して帰った。
仕事終わって帰りの車中前途の映画を思い出し、いろいろの想いが去来した。
いい勉強になった、やりなおしが出来たからいいようなものの、世の中慎重に行動しないと思いがけない事が起きるもんだ。自分のトンマは棚に上げて先の映画の成り行きに思いを新たにした。
 
この映画の影響で私は今でも日活ファンである。

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(2006/05/09(Mon) 00:43:39)

慌てる乞食は貰いが少ない(前 編)

浜松市   寺脇 龍狂

 昭和六年三月大不況の真っ只中、小学校を卒業した。
不景気のドン底で働き盛りの大人でも仕事がなかった時代、学校を出たばかりの子供に働き場などある筈はない。
親類の世話で浜松の商家へ小僧奉公にいった。今と違って小僧の人権など虫けら同然月の手当が一円(兄弟子たちはみな身内でもっと安かったらしいが、他人の私が割り込んだので値上げしたらしい)月二回、一日、十五日のお休みに五十銭づつ戴いた。それでも休日の二日はキチンと休ませてくれた。
 反面物価も安くて大饅頭が五銭、お好み焼一銭、ミカン水二銭、煙草は一番安いゴールデンバットが七銭(これはまだ子供で買えなかったが・・・)夜店へ行くと作業ズボンが一円で買えた。
 朝は三時に起こされ麦飯に沢庵、冬は鰯の目刺しばかり、夜九時就寝だが外出など絶対許可されず夕食後は親方夫婦の肩叩き、四人の小僧に布団は二組、二人一組で寝た。
布団干しなど一度もした覚えはない。こんな話、きょうびの子供に聞かせてもマンガにもならないと思うが、まずくても腹一杯食べられたのが儲けぐらいか。
 忘れもしないが、夏みんなで弁天島へ海水浴に行ったときお握り持参だったが、十銭で一日遊ばせて貰ったが確かに安かった。

 住み込んで間もなく活動写真を見せて貰う機会があった。おそらくビラ下(町へ貼る広告の下の隅についている三角の無料券のこと)を貰ったので新米の私に特に行かせてくれたものだと思うが、これはとても嬉しかった。
喜び勇んで吾妻座という日活専門の活動小屋に行った。
その時初めてまともな映画館へ入り本格的に見物したわけだ。
 日活映画「心の日月」という題名で、原作は菊池寛、主演が入江たか子、小杉勇、嶋耕二、峰吟子ぐらいに記憶している。
初めて映画を見た訳だが、秋葉山の山猿の子が、入江たか子という素晴らしい美人女優の写真を見て、その気品高い清純な容姿に圧倒され、天女にでも遇ったような驚きと感動をおぼえた。
 勿論まだ無声映画の時代で弁士の説明つき。その代わり必ずプログラムをくれて、それにあらすじが書いてあるので始まる前に読んで大筋は呑み込んでいる訳だ。
ストーリーは岡山の青年が東京の恋人に逢うために上京したが、中央線の飯田橋駅で下車した際出口を間違え反対側へ出たため首をながくして待っていた彼女に逢うことができず、事は予想外の発展となり、お互いに最終的には思わざる人と結ばれる結果になったというような筋書きだったと思う。因みに入江たか子という女優は東坊城子爵という華族の令嬢で、家庭の事情で女優になったということを後から知った。田舎者には想像もつかないが駅の出口が両側にあったということが、この男女の人生を大きく狂わせてしまったことは強烈に印象に残った。

閑話休題、話は飛んで爾来春風秋雨幾星霜、昭和四十年頃製材会社に勤める身となり図らずも東京へ商売に行く仕事に携わるようになった。  ―続きは次号で―

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(2006/05/09(Mon) 00:43:39)

お 泊 り さ ん 2

柳沢 平四朗

 飛び込みのお泊りさんは強引な割込みをする。定員十八人の小さな宿屋であるので困ってしまうが断るのは、とても辛くつい無理をして泊めてしまうと祖母が苦笑いをしていた。
 小間物や。糸紐類や。刃物の研やなどは一日で他所へ出立つする。太物や帯芯を商う人は其の当時でも軽四輪で商品を積みこんで走り回る翔んでいる商人であった。
 暮れになると三河万才の予約のハガキが舞いこむ、神楽舞いや虚無僧は酒癖の悪い人が多く喧嘩好きなので、断るのに一苦労のようだった。
 松笠で羽を拡げる大鷹の置き物を作る名人芸、乗り物の模型を針金で編む職人芸のお泊りさんは、実入りが良くチップをはずんでくれるので祖母やおふくろには上客であった。
 春になると遠州三山のお開帳や鎮守様のお祭りで境内は繁華街になる。山里の植木屋さん達が満を持した此の日である。商いものが大きいのでリヤカーに乗ったままのお泊りさんになってしまい、大小の植木や苗木でわが家は突然幻の森林が出現したようであった。
 此の時季、常連のお泊りさんは、やはり縁日を狙う三人組のおばさん達である。こんぶ、わかめ、あらめ、青のり等の潮の香を篭に山盛り、軽々と天秤棒で担ぐオバタリアンで口も八丁手も八丁、賑やかな会話も商いの一つか毎日哄笑の渦であった。
 津波のようなお泊りさんが引いた頃、花のジプシーを名乗る蜂屋さんが来る。毎年元気な顔を見せてくれる父子である。やはり此の人達も大荷物でリヤカーに茶箱ぐらいの巣箱を十個積み込んで来る、一箱に働き蜂二万匹が待機しているという。

 しっかり積んであったはずの巣箱から蜂が飛び出してきて家中が大騒ぎになった事がある。先客から預かったミカンの苗木に原因があるらしい全くハプニングであった。
 初夏になると四国の香川県から薬屋のおじさんが来る。五ヶ月は滞在する上客のお泊りさんである。大きなトランクカバンを肩に草鞋履き広告傘をさし、薬の唄を歌いながら売るスタイルはまるで民話の主人公のようだった。
薬のメインは家伝の腹ぐすり「千金丹」で時節柄上々の売行き、懐は頗る温かく気前の良いおじさんである。何故か私は大へん可愛がられ行商のない雨天などは下校を待ち侘びて将棋の相手や、小説を読んで聞かせる事に付き合せられ駄賃の貰える楽しみがあった。
 長い間の家業へは不快なお泊りさんも度々ある。ある日風采も賎しくない中年の紳士が学芸員という名刺で宿泊を申し込んで来た。こんな小さな宿屋に何故か余計な胡散臭さを感じた。スーツケース大の黒塗りの箱に金色の金具がいかめしく打ってある。祖父が中身を聞いても終始そらとぼけ大事な実験用具が入れてあり、学校と官公庁へ出向の仕事だと言っていた。不安と怪しさを残し一日だけのお泊りで出立つした。後日聞いた話だが巧妙に出来たインチキ品をエジプトのミイラだと云う触れ込みの商売道具であった。間もなく周智郡周辺の学校で露見し逮捕されたという。
 さまざまなお泊りさんの足跡が残る家業の一端である。本年は祖父母の没後五十年、こんな煩わしい仕事を長い年月続けてくれた感謝へ、追憶も歳月にだんだん流されて行く、振り向けば十七代目くらいであろうか、弟が祖父の地を守り暮らしている。

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(2006/04/09(Sat) 00:43:39)

一桁の昭和生まれが振り返る日本

川路 泰山


 激動の昭和、戦後も六十余年を過ぎて世界でもトップ級の経済大国とはなったが、反面大きな歪みも生じてしまった。一つには大家族制度の崩壊により、なげやりな家庭教育から生ずるモラルの低下、それによって起こるおびただしい数の事件犯罪である。
それというのも敗戦により国土の大半は焼土と化して衣食住を失った国民は生きる事さえ大変な時代を迎えて、一人一人が焼土にしがみついて立ち上がってきた。
その昭和一桁生まれの人達が自分の経てきた過去を子孫には踏ませまいと必死の努力をして、“自分は食わなくても子供には”の甘やかし。そして、急速な経済成長による豊富な物資と個人生活の安定、反面核家族化が進み、夫婦での共稼ぎによる家庭内での子供達の躾は自然と放置され、箸や茶碗の持ち方まで学校で教えるのが当然かの過った考えが横行、事件が起こると何もかも学校や社会の責任の様にして、親としての責任は何一つ頭にない恐ろしい時代となった。結果が子が
親を親が子を殺傷、他人に対しても同様に無差別な殺傷や物を奪ったりが日常茶飯事の様になってしまった。また、核家族化による老人の一人住まいも近所との付き合いもなく何時死んだかも知れない事件が多発しており、自分さえ良ければ他人様のことなど振り向きもせず、なるべくなら関わりのない方向へと回避する。一見平和な様に見える日本だが先が危ぶまれる。これも一部には昭和一桁生まれの責任のようにも思える。
私達の青少年時代には隣近所の大人達も互いに日常の面倒を見合ったものだが、今は余分な事の様に思われて話すら出来ぬ事柄が多い。昭和一桁も全員七十代となり、地域からも人生経験者と見られ、暇も作れるので、何とか話し合いの場や挨拶運動あたりから始めて、生活常識を再教育する時代ではなかろうかと思う。地域や行政でも、そんな機会を作ってもらえればお手伝いさせてもらえるのだが。


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(2006/02/09(Wed) 00:43:39)

神  の   国

望 月 弘


 子供の頃の夢は兵隊さんだった。
「召集を食って兵隊に行った。」という世間話を聞きかじり、「召集を食いたい。」と親を困らせたらしい。
 ある時、家族でしる粉を食べた。これが召集だというと、喜んで食べたそうだ。しかし、「召集をいっぱい食ったのに、どうして兵隊さんになれないのだ。」と親を困らせたらしく、後に、母親から聞かされた。
 昭和十七年四月、国民学校に入学。ラジオから聞こえる大本営発表の戦果に、こども達の小さな胸も戦争一色に駆り立てられていった。遊びも戦争ごっこが主流で、竹の鉄砲や刀を自分達で作って、神社の境内や野山をかけずり廻ったものだ。
日曜日はお宮(氏神)さんの清掃が子供達の仕事で、子供心にも銃後の守りをまかされている心意気でもあった。
ある時、剥がれかかった杉の木の皮を箒で落したT君が、上級生からこっぴどく叱られた。「神木を箒で傷付けるとは何事だ。」と。神社は神国日本の象徴であり、境内にある全ての物が神である天皇陛下のものであると教育されていたからだ。
 又、ある時下級生だったH君が遅れてきた。早速上級生に問い詰められると、目を白黒させながら、「だって、雑煮が熱くて早く食えなかっただもの・・・。」と答えた。当時は主食も麦や芋の雑炊ならまだしも、草や木の芽も食べていたので、みんな痩せこけていた。
 召集や志願で出征する人を、神社の境内で武運長久を祈って、集落全体で送り出すのが習わしだった。「元気でいきます。」と挨拶する人と「元気でいってきます。」と云う人があり、天皇陛下に命を捧げて死を覚悟で出征するのだから、「いきます。」は男らしいが、「いってきます。」は女々しいとまで噂される恐ろしい時代だった。
 終戦間近の昭和二十年頃になると、白木の箱で帰還する人が目立つようになった。その頃出征兵士を送る際に、友達のK君が、「帰ってくる時は白木の箱だったりして。」と冗談めかして口にした。そして、「縁起でもない。」と叱られた事があった。
 白木の箱での帰還はこの上なく名誉だと教えられていたので、悪気ではなく誉めたつもりだったと思う。でも、今考えると何て失礼なことだったと思う。その人は終戦後無事帰還された。本当によかったと思っている。

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(2005/12/09(Thu) 00:43:39)

私の戦終期の思い

金田 政次


 「オーイ内地の灯が見えるぞー!」
広いリバティー号の船腹は、二階建の櫓に足を延べて寝る程の余裕の無い「ます席」がぎっしりと組まれ其の上下どちらの席にも溢れる様な帰還兵で一杯だった。
 その二階の一角でうとうとしていた私も肩を叩かれる迄も無く甲板に飛び出していたのに不自然はなかった。
 薄靄の漂う海上遥か、チラチラ幾つかの灯が瞬いているのを認めると、「・・・内地の灯だ、博多の灯だ・・」と一頻り声が飛び交い騒然とした状態になったが、急に静か
になったなと思った時、誰が歌い出したのか“君が代”の一節が流れ、それに続いて甲板一杯の帰還兵が唱和するのに時はなかった。
・・・千代に八千代にさざれ・・・どの顔も泣いていた。私も涙を手で拭いながら大声で歌った。久し振りに出した声だった。気持ちが良かった。心の底から『帰って来たな』と思ったのは此の時である。
 丸一日と一昼夜海上に留め置かれて、博多湾埠頭に帰還第一歩を印したのが昭和二十一年五月十九日、腕時計が正午を指していた。
私の戦中期には此れといった華々しいものは何も無い、寧ろ終戦期に私なりに色濃く感じた幾つかの出来事があった。
 上海の登一六三一部隊での予備下士官候補者の教育でこってり絞られて、南京の台城部隊へ帰隊した昭和十九年六月頃は既に中国人一般民衆の間で「中国勝った、日本負けた」という噂が広まり不穏な空気が漂っていた時である。
 我が部隊で編制した野戦病院も情勢不安の為撤収する事になり自分も応援に派遣された中に含まれていたのであるが撤退は容易なものではなかった。
 抗日の旗のもとに日本軍と戦っていた中国軍(正規軍と呼んでいた)と共産軍の双方から自軍の方へと期限付きの明け渡しの要求があり、対峙して譲らず一触即発の睨み合いの真中を独歩患者には肩を貸し担送患者は担架で担っての徒歩撤退である。安全圏と思われた揚子江(長江)の河岸へ辿り着いた時、最後尾に居た兵から両軍の発砲の音を聞いたと報告があったが定かではない。

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(2005/10/09(Sat) 00:43:39)

初めての空中勤務

  岡 村  廣 司

 
昭和十八年十月、陸軍少年飛行兵として青森県の八戸教育隊へ入隊したのは十五才の時だった。そこで一年間軍人として、又整備兵としての教育を受けた後、その内の四百名と共に浜松飛行学校内の教育隊へ転属となり六ヶ月間教育を受けた。卒業と同時に殆どの者は外地へ出発したが、私は数十名の戦友達と浜松教導師団研究班へ配属された。私の担当機は当時最優秀と言われていた四式重爆撃機「飛龍」で機付長の軍曹殿と同期生二名軍属一名の計五名でここで始めて整備兵としての実務に就く事になったわけで有る。
 数日後、私達の機に船団援護の任務が発せられ機付長が俺と一緒に搭乗しろと言う命令をされたので愈愈待ち望んだ日が来たなと期待で有頂天になっていた。直ちに飛行服に着替え操縦席の隣へ着席した時は夢心地、憧れの飛行機で大空へ飛び上がるんだと思うと心臓がどきどきで機上の操作を教えてくれる機付長の声も上の空、何をどうしたのかまるで覚えていなかったし、その時の搭乗員が何名だったのかも全然記憶に無かった。地上試運転が済み、離陸時の緊張感、機体が浮き上った時の何とも言えない重圧感、これだけは今でも不思議な程しっかり覚えている。離陸後左旋回するとやがて遠州灘上空で、間もなく輸送船団が見
えて来た、多分三隻だったと思うが間隔を大きく取って西へ向って航行している。その周囲には白波を蹴立てた駆逐艦が数隻併航していた。私は只呆然と眺めていたが、わが機の任務は上空より敵潜水艦に対する警戒であった。
 名古屋へ差し掛かった頃、私は気分が悪くなり出し飛行機酔いだと気付いた。元々船酔いする体質だが飛行機に乗りたい一心で受験票の船酔いなしに丸を付けたので酔ったとは言えず体をかがめて我慢したが機付長は気付いたと思った。無事任務が終了して飛行場へ着陸した時は冷汗びっしょり足元はふらふらで、同期生達が一斉に寄って来てどうだったと聞いているのに満足に答えられない状況で恥ずかしい限りであった。実は同期生でも空中勤務と地上勤務が有って私が最初の搭乗員になった為全員に注目されていたわけで後日、あの時の岡村の顔色はまっ青でろくにものも言えなかったんだと笑い草にされて了った。
 その後何度も搭乗したが何度も酔っていた。

 “軍歴は短かけれども貴重なる
           体験せしは生涯役立ち”廣 司



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(2005/06/07(Mon) 10:46:45)


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