川柳をやっていて一番嬉しいことは友人がたくさん出来る事であるが、逆に淋しいことは「見送る人」も多いこと。先日、薮﨑千恵子さんが約二十年前のたかね誌を句会に持ってきてくれたのだが、それを見たら自由吟を出している当時のメンバーは望月満月さんと僕だけ、あとは全員他界していて愕然とした。

 

昨年も幾名かの大切な川柳人を見送った。柳沢平四朗さん。増田まさしさん。岩田笑酔さん。高瀬輝男さん。

 

僕が二十七歳の時に初めて参加した静岡市民川柳大会の会場で声を掛けてくれ、たかねに誘ってくれたのが柳沢平四朗さんだった。当初は句会に出席せず投句だけの参加だったのだが、毎月送り返されて来る句稿には平四朗さんのひとことが赤ペンで添えられていて「君はセンスがあるよ」「今度句会にいらっしゃい」等々…。亡くなる少し前に身辺整理をしていたらしく、「僕にはもう必要がないから」と頂いた宝物は二人だけの秘密。ずっと大切に仕舞っておこうと思っている。

増田まさしさんは元小学校の先生だけあって、とても穏やかな人だった。まさしさんが静岡市川柳協会の会長だった時代と、受け継いだ石田竹水さんが会長だった時代、僕はずっと副会長で二人を支えた。というより僕のやりたい放題を応援してしれたというべきか。当時、静岡市と清水市が合併になり清水の川柳結社と静岡の結社もひとつになった。その為に今まで貯めていた貯金を使ってしまおうということになり、静岡市民川柳大会に全国レベルで活躍する川柳人を続々と選者に呼んだ。成田孤舟氏、津田暹氏、故・加茂如水氏、小林信二郎氏、赤松ますみ氏、金子美知子氏、熊谷岳朗氏などなど。

「近いうち竹水氏と三人で飲みに行こう」という約束も叶わず増田まさしさんは旅立ってしまった。

 

僕が三十二歳の時、富士宮で開催された静岡県川柳大会で初めて選者をやらせて頂いた。その時、僕の披講になってぞろぞろ仲間を引き連れて会場を出て行ってしまったのが岩田笑酔氏。若い頃ずいぶん意地悪されたし長年の確執があった。氏が高瀬輝男さんから引き継いで県協会の会長に就任すると同時にたかね川柳会も協会から脱退、三年間の協会無所属期間があった。メンバーから説得され、僕も個人的な恨みにいつまでも拘っているのも大人げないと思い、岩田氏の自宅に一人で伺い、両手をついてたかね川柳会の県協会復帰をお願いした。それからの岩田氏はまるで人が変ったかのようにいつでも笑顔で「鰹君、鰹君」と可愛がってくれた。

 

高瀬輝男さんとの思い出は数えきれないほど。毎年の伊豆、宮城、新潟、東京、広島、各地の川柳大会にご一緒した。口数少なく、いつもニコニコして、お酒を飲むと真っ赤になって。九十歳の方に言うべき言葉ではないのかも知れないが、とても可愛い人だった。

 

故人との思い出は尽きないが、我々は先輩たちの遺した足跡をしっかりと踏みしめながら、また新しい年へ新たな一歩を踏み出そうではないか。

 

2013年1月号