最近やたら仏像への関心が深まったのは歳のせいなのだろうか。私が最初に接した仏像は、子供の頃近所の寺で観たお地蔵様だったと記憶している。

本格的な仏像に接したのは定番の奈良・京都への修学旅行での東大寺大仏そして中宮寺の如意輪観音だった。

事前に国語の教科書の「奈良三日」という紀行文で学んだ仏像を目の当たりにし、大変感激したものだった。

仏像への関心は、この時植えつけられたのかも知れないけれど、それ以降は古寺名刹を訪れても、お賽銭をあげ御本尊にお参りはするものの、仏像自体に深い関心を寄せ続けていたわけではなかった。

ところが高齢になるにつれ、私にも神仏に対する信仰心が芽生えたのか、祈りの対象としての「仏像」と同時に美術品としての素晴らしさにも心を奪われるようになった。

奈良興福寺のあの阿修羅像も初めて観た時の「タラバガニみたい」と思った修学旅行とは裏腹に、数年前の再会では、えも言われぬ感動を覚え、立ち去り難い想いに駆られたのは一体何だったのだろう。

私なりの仏像への思い入れのひとつに、掌で安心させて頂けそうな東大寺の大仏様を筆頭に、ぞっこん惚れ込んでいるのは、東大寺南大門の仁王様、阿形・吽形像である。憤怒の気を身体全体にみなぎらせたこの二体は、運慶 快慶を主流とし多数の仏師が二ヶ月余りで造り上げたとされ、そのパーツは三千にも及ぶとも言われている。

心を静めたい時は広隆寺の弥勒菩薩と中宮寺の如意輪観音のアルカイックスマイルに尽きる。学徒出陣の学生がポケットに忍ばせていたのがこの仏像の写真だという。

苦しみから救って頂けそうなのは千手観音様だと勝手に決めている。千本もの御手を持ち、掬うための掌は水掻きがあったり、色々な救助グッズをお持ちである。

まさか千本の御手は無いだろうと思っていたが、大阪の葛井寺の仏像はしっかり千本の手があり、そして今年訪れた奈良唐招提寺の千手観音は幾度かの修復で取り付けられなかった手があるものの現在は九百五十三本お持ちだとか。

その手の持物を観ていて驚いた、宝珠・水瓶・弓・剣・錫・杖等は納得したものの、観ていくうちにびっくりするものを目にしてしまう。何とそれは紛れもなく「髑髏」である。けがれなき御方が何故「しゃれこうべ」?と大きな疑問が湧いた。お釈迦様の仏舎利?それとも威嚇のため?・・・

今もってその謎は消えないままである。

仏像にまつわる忘れがたい想い出もある。数年前、友人と奈良見物を終えて帰途についた時、地元の男性が近づき「もしお時間があれば是非ご案内したい所がある」と半ば強引に新薬師寺へと案内された。新薬師寺についての知識は薄かったが、そこには目を見張る仏像群「十二神将」が待っていてくれた。そしてあまりの迫力に圧倒された。

一昨年NHKで放送された「日本心の仏像百選」にこの十二神将を私も投稿した。その時採り上げられた百仏の内五十ヶ所以上は参拝しているものの、まだまだ参拝したい仏像は沢山ある。

これからも美術的には勿論、信仰の対象としての鑑賞も心掛け、生きるよすがとし、機会のある限り仏像巡りを続けたいと思っている。